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イ エ ス っ て だ れ ? |
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「イエスってだれ?」でしょう。 あなたにとって、イエスとはどのようなお方でしょうか? あなたの人生に、どのように関わっておられるでしょうか? あなたの中で、どのような位置を占めておられるでしょうか? 聖書の中で、イエスご自身はこのように仰せになっておられます。 「わたしは、道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14,6) 「わたしは世の光である。わたしに従う人は暗闇を歩かず、命の光を持つ。」 (ヨハネ6,12) 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28、20) またマルコはその福音書の始めに、 「神の子イエス・キリストの福音の始め」(マルコ1,1)と書き記しています。 ヨハネは「言(ことば)は神であった」(ヨハネ1,1) 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(1,14)と書きます。 イエスが弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか」と お尋ねになった時、シモン・ペトロは 「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16,16)と答えています。 同じペトロは使徒言行録の中で捕えられて議会で取り調べを受けた時に、 「ほかのだれによっても、救いは得られません。 わたしたちが救われるべき名は、 天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4,12) と弁明しています。 復活されたイエスを見ても、それがイエスだと信じることが出来ずに疑ったトマは 「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20,28)と告白しています。 上に記した箇所の他に聖書にはたくさん“イエスってだれ?” という問いに対する答えが見つかります。 あなたも聖書を開いてイエスについて書かれている個所を探してみて下さい。 「イエスってだれ?」なのかをご自身で見つけて下さい。 イエスの生涯を学び、 イエスの言葉を心に留め、 そのイエスが どのようにあなたの人生に影響するかを発見しましょう。 私たちと ご一緒に神様を探し、 “イエスってだれ?”なのかをみつけましょう。 |
イエスってだれ? ★「聖書思想事典」三省堂の抜粋より イエス・キリスト イエスは、ある時と場所において世に現われ、「女から生まれた者、また律法の下にある者」(ガラテヤ4,4)とされた人間である。その時とは「クレニオがシリアの総督であった時」(ルカ2,2)であり、場所とは「ガリラヤのナザレトという町」にある「ダビデ家のヨセフ」という人の普通の家庭である。彼は、他のユダヤ人の子供と同じように割礼のとき命名される。その名イエスは、イスラエルで珍しいものではなかった。イエスとは“神は救う”の意味である。 福音書では、キリストを名指したり、またその活動を述べたりする時に、一般にイエスという名が使用されている。ところが彼は、生前“ラビ”つまり「先生」と呼ばれていたに違いない。そして、死んで栄光に入ってから、“主”と呼ばれるようになる。 人名を意味するイエスと職名を指すキリスト(メシア)とを結び合わせた“イエス・キリスト”という名で呼ばれます。初代教会のキリスト者は、“イエス・キリスト”という時、そこには、実際この世に生活した歴史的人物(イエス)と信仰によって告白する称号(キリスト)を宣言します。 福音書は、現在的な歴史記述の原則に従って編集されたイエスの伝記ではない。それは、イエスを信じる者が、読者にも同じ信仰を起こしかつ強めるために、種々の思い出を配置して記したものである。この思い出は確かに、キリストの復活に対する信仰によって照らされているけれども、確実にナザレトのイエスの迫ることができる。 イエスが告げることは、自分の宣言と共に神の国が始まったという良い知らせです。「あなたがたの目は見、耳は聞くから、幸いである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者と義人は、あなたがたが見ているものを見ようと望んだが見ることができず、あなたがたが聞いていることを聞こうと望んだが、聞くことができなかったのである」(マタイ13,16-17)。ところで弟子たちが実際に見たり聞いたりしたものは、まず 第一に、イエスの悪魔に対する勝利である。「もし私が神の力をもって悪魔を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところにすでにきている」(ルカ11,20)。「私はサタンが いなずまのように、天から落ちるのを見た」(ルカ10,18)というイエスの言葉が示唆しているとおり、敵は実際に敗北する。次に、弟子たちが見聞きしたものは奇跡である。奇跡は、イエスの教えによれば、人類が新しい時代にはいった徴(しるし)である。「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は清くなり、聾者は聞こえ、死者はよみがえる」(マタイ11,5)。そして第三に弟子たちは、イエスが貧しい者への福音宣布をより重要な決定的な事柄として選んだという事実を聞かされる。「貧しい人には福音が告げられる」(ルカ11,5)。イエスはこのように語って、イザヤの預言が実現したことを告げる。イエスの宣教活動は、神の計画を完成させるものである。イエスは、聖書を説明する普通のラビと異なり、権威をもって宣教する。彼はまた、預言者たちとも異なり、単に神の言葉を伝えるだけではない。 イエスにとって、回心するとは彼に従うことであり、彼に対する自己の態度決定を行なうことにほかならない。「私に味方しない者は私に反対する者であり、私といっしょに集めない者は散らす者である」(マタイ12,30)。イエスに聞くとは、神自身に聞くことであり、彼の言葉を実行する人は、「岩の上に家を建てる賢い人」(マタイ7,24)にたとえられる。 イエスは“アッバ、父よ”と親しく話しかけており、さらに、自分は父にとりかけがえにない子であるがゆえに、種々の秘儀の啓示を受けていることにまで言及している。だからといってイエスは、自分はどんなことでも知っていると主張しているのではなく、自分の意志を父のそれに従わせている。他方では彼は、旧約以来神に遣わされた多くの人々のなかで、自分が特殊な位置にあることを示し、自分自身と神の国とを同一視している。このことはたとえば、種まく人のたとえ話でも暗示されており、かつ、貧しい人や罪びとに対する彼の態度は、父なる神自身のそれを象徴的に示している。 イエスは、まもなく死ぬことを予見し、復活のことに言及しないで受難を予告している場合がある。彼はこの死を神の計画のなかでながめ、人類の対する奉仕とも購(あがな)いの生贄(いけにえ)とも考えている。ところが死の時が近づくや、互いに仕え合うようにとの遺言を弟子たちに残している。これらの言葉を総合すると、イエスは自分よりも強い敵の課した死に、不本意ながら従ったということはできなくなる。 多くの聖書学者は、さらに一歩進めて、イエスは自分自身をヤーウェの僕と同一視していたと考える。事実彼は、“人の子”がたどるべき道を、イザヤ書の“主なる神の僕”の歌にみられる表現を使って示している。たとえば、自分の従順を「……ねばならない」(ルカ17,25)という命題で表現しているし、自分の命を多くの人々のために生贄(いけにえ)として捧げているし、しかもこの生贄(いけにえ)で新しい契約を締結している。もしイエスが自分の死をこのように解していたとすれば、確かにその復活も予感していたに違いない。 ところで、イエスはこのように復活を確信していたからといって、人間的な弱さから解放されていたわけではない。彼は、ゲッセマネでは苦しみにとらえられて震えおののき、神からも見捨てられたかのように感じている。勿論こういう場合でも、自分が父なる神の“子”であるとの自覚は失っていない。受難と十字架のの神秘によってイエスは神の救いの計画を完成した。そうして、ご復活の出来事によって弟子たちは、十字架の上で亡くなったナザレトのイエスとはいかなる人物であり、その生涯にはどんな意義があるかを発見する。 復活されたイエスと接触をもっていた弟子たちが、「神は彼を死者のなかから甦らせた」(Tテサロニケ1,10)と宣言する。復活後イエスは天に上げられ神の右に座していることを弟子たちは宣言する。キリスト者のこの最初の信仰告白に呼応するものが、「マラナタ」(Tコリント16,22)というアラム語の古い祈り句である。この挨拶の言葉は、確かに“主よ、来てください”の意であるように思われるが、栄光に上げられ天の王座についた主イエスは、終末の裁き主であることを明瞭に表している。この言葉はさらに、栄光を受けた彼は、単に世の終わりに再臨するだけでなく、人間の歴史のかなで絶えず自己を現わすという、再臨の真の意味も示唆している。イエスは“歴史の主”だからである。 人間の歴史の主であり、アルファ(α)とオメガ(Ω)、始めと終わりであるキリストは“王の王”“主の主”として、「世の終わりまで、毎日私たちと共におられる」(マタイ28,20)。 |
今のままのあなたでよいから私を愛してほしい モンシニョール・ルブラン作/石川康輔訳 イエスは言われる。 あなた自身のみじめさ、あなたの心の戦いと苦悩、 あなたの体の不自由さと病とを私は知っている。 あなたの卑しさ、あなたの罪を私は見通している。 しかし、それにもかかわらず、私はあなたに言いたい。 「あなたの心が欲しい。今のあなたでよいから、私を愛して欲しい…」と。 愛に身を任せるのに、天使になるときまで待とうとするなら、 いつまでたってもあなたは私を愛せないだろう。 任務の遂行や徳の実践においてあなたがぐずついていても、 また、二度と犯したくない過ちにしばしば陥っても、 だからといって、それを口実にして私を愛さないことを、私は許さない。 今のままのあなたでよいから、私を愛してほしいのだ。 いつ、いかなるときも、熱心なときであれ、無味乾燥なときであれ、 忠実なときも不忠実なときも、私を愛してほしい。 今のままでよいから…。 私はあなたの貧弱な心の愛で満足なのだ。 もし、完全な人になるまで待つとすれば、 あなたはいつまでたっても私を愛せないだろう。 私が一粒の砂から清さと気高さと愛とに輝く熾天使(セラフィム)を 造りあげられないとでも思うのか。 私は全能者なのだ。 全能者の私が、あのすぐれた存在者たちをさしおいて、 むしろあなたの心のみすぼらしい愛を選ぶとしても、 私は自分の愛の支配者として振る舞っているだけである。 わが子よ、私にあなたを愛させておくれ。あなたの心が欲しい。 もちろん、少しずつあなたの向上を図るつもりだ。 でも今は今で、あるがままのあなたを私は愛している。 だからあなたも同じようにしてほしい。 みじめで、低い場所から、愛の昇ってくるのが見たいのだ。 私はあなたの弱ささえも愛する。弱く、貧しい者の愛を好む。 取るに足りない者の口から出る、「イエスよ、あなたをお愛しします」という 叫びが聞きたい。 私はあなたの心の歌のみを欲する。あなたの学識も才能も私には必要ない。 私が見たいのは、愛によって働くあなた自身なのだ。 私が望むのはあなたの徳ではない。 徳ならあなたに与えることができる。 でもあなたは弱いので、徳をもらえば自己満足に陥ってしまうだろう。 だから徳のあるなしにこだわる必要はない。 あなたを偉大な者にしてあげてもよいのだが、それはやめておこう。 あなたは無益なしもべであればそれでよい。 私は、あなたが持っているわずかなものまで取り上げる。 あなたは愛のためにのみ造られたのだから。 今は、私は物乞いのように、あなたの心の扉の前に立つ、 王の王であるこの私が。 そしてあなたの心の戸をたたく。急いで開けてほしい。 あなたのみじめさを戸を開けない口実にするな。 みじめだと言うが、もしあなたのみじめさをほんとうに知ったなら、 恥じ入って死んでしまうだろう。 私の心を傷つけるのは、あなたが私のことを疑い、 私への信頼に欠けることである。 どうか昼も夜も、絶え間なく私のことを考え続けてほしい。 どんなにつまらないと思われることでも、愛のためにのみ行ってほしい。 私を喜ばせておくれ…。 とにかく忘れてはならない、今のままでよいから、 私を愛してくれることを。 私の母をあなたに与えよう。すべてを、この清い母をとおして受けとるがよい。 どんなことが起こっても、愛に身をゆだねるのに、 聖人になる日まで待ってはならない。 何度も言うように、待っているなら、いつまでたっても 私を愛することなどできないから。 さあ、今すぐ、この私を愛してほしい。 |
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