6-共同体の返答「また、司祭と共に」

 
共同体の返答も信仰宣言である。 「また、司祭と共に」と、神が司祭と共におられ、彼を通して働かれることを宣言する。 共同体を教え導き、また、共同体の信仰を強めながら、キリストの名によって、共同体を神に相応しい供え物としてから捧げるために、司祭が選ばれている。 もちろん司祭が 共同体から受けた「また、司祭と共に」と言う挨拶に対して 注意深い者となるのは 避けられない事実である。 

  ミサ中に、この互いの挨拶「主は皆さんと共に」「また司祭と共に」は 何回も繰り返されるので、その意味をよく理解した上で、それに対して、司祭も、信徒も目覚めている必要がある。

  司祭は「主は私たちと共に」とは言わない。 その理由は 司祭は普通の信者ではなく 神に選ばれて、ある共同体に遣わされている者だからである。 司祭は神の前で 共同体の声となる。 神は彼の口を通して語る。 例えば、不思議なことではあるが、 司祭が説教をしている時、急に、神は司祭に、彼が準備していなかった、あるいは全く考えなかった言葉を吹き込み、言わせる。 また、司祭が他のことについて語るように 彼が説教の紙に書いてある箇所を見ないように隠すこともある。 そこに、神のユーモアと悪戯がある。 そんな不思議な時に、結局、神は 司祭の口を通して、信徒に直接語っていると言える。 これは特別な神秘である。 確かに、司祭も、信徒も 皆一緒に 司祭の口から出る命の言葉を受け留め、心に納めるのは大事なことである。

  神は確かに共同体と共に、司祭と共におられる。 それは、皆が益々、一緒に、神の聖なる教会となり、また、神の栄光の住まいとなるためである。 信じる人は、誰であろうと、命のことばを心に納め、優しく受け止めることを学ぶ必要がある。 そいう訳で、「主は皆さんと共に」「司祭と共に」の意味を深く考え、習慣的に言わずに、互いに励まし合うように努めよう。





   司祭の挨拶あわれみの賛歌
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