24-記念


  イスラエルの民を始め、キリスト者にとっても「記念する」ことは、誕生日のように昔の出来事を思い出し、何回も繰り返して祝い、あるいは、それを再現すことでは 決してない。 

  記念することは「聖なる行い」であり 神の前で、神と人々のために 過去の出来事を「今、ここで、聖霊の交わりの中に」現在の出来事、実際に初めて行われる出来事とすることである。 神だけがその神秘を可能とする。

言いかえれば、「ミサ祭儀の記念」は 秘跡的な行いである。 教会の信仰の内に、現代に生きる私たちは ただ一回だけ実現された過去の出来事に、実際にあずかるように、この秘跡的な行いをする。 また、栄光のうちにキリストが来られる日まで、この秘跡的な行いは 全人類に未来を開いている。「神の祝福が 幾千代までにも及ぶ」(出エジプト20, 6)からである。

  そう言う訳で、「信仰の神秘」と司祭が宣言する時に、信徒たちは「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と答える。 ミサの記念は言い表せない神秘であり、あらゆる時代、あらゆる文化の人々のために実現されている「あがないの神秘」である。 
  それで、生きている限り私たちは、ミサ祭儀の記念のおかげで、十字架に付けられているキリストのすぐそばに、信仰によって、自分たちの親しい人々を連れて来ることが出来る。 しかも、その上、あらゆる時代の死者も、まだ生まれていない人々にも そう出来るのである。 これこそ 全人類をキリストのあがないの神秘に与らせるために 毎日捧げられているミサの意味と私たちの信仰の目的である。 キリストのあがないは 全ての時代を救うので、信徒たちはその救いの協力者となる大きな使命を持っている。
 
  ミサ祭儀の真只中での「信仰の神秘」の宣言は キリストの記念を行っている共同体が、信仰の恵によって、確かに、実際に、その時にこそ、キリストの晩餐、受難、死、復活と昇天に、あずかっていることを証している。 ちょうど、集まっている共同体の中に、パンとぶどう酒の姿で キリストが実際に、確かに存在しているのと同じように。 「聖変化の神秘」と「記念の神秘」は親密に一致して、離すことの出来ない神の不思議、命のあふれる貴重な恵である。

そう言う訳で、ミサ祭儀や教会の秘跡を授ける人は「神父」ではなく「司祭」と呼ばれている。 なぜかと言うと、司祭は「in personna Christi」即ち「キリストになって」ミサを捧げ、秘跡を授けているのだから。 他の多くの時には司祭は ただ、神に選ばれた人として「神父」と呼ばれている。





              
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