歴史から見てみよう

                     
 初代教会の信徒は、ユダヤ教の習慣に合わせて、安息日の食事をしながら、主の晩餐の記念を土曜日の夜に行った。 「信者たちはひたすら心を一つにして...家ごとに集まって「パンを割き」、喜びと真心を持って一緒に食事をし、神を賛美していた。」(使徒言行録2、46) しかし、信者は次第に、安息日に分かち合いの「アガペーの食事」 を取ることだけになり、次の日曜日の朝は 「主の晩餐」 「パンを割く式」 を行いながら 主の復活の記念をも祝うようになった。

 ここで、使徒パウロの影響を強く感じる。 「一緒に集まっても、「主の晩餐」を食べることにならない。 なぜなら、食事の時、各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからだ」(1コリント11,20-21) この教えに従って、 信者は、1世紀半から 3世紀の終わりまで、一緒に分かち合う 「アガペーの食事」を特に やもめたちと貧しい人々のために行った。(参照 使徒言行録6,1-2)

 ギリシャ語とラテン語で記念していた主の晩餐は、最終的に日曜日の朝に行われていた。 4世紀の初め、キリスト者の迫害が終わると、次第に「パンを割く祭儀」は「Eucharistein 感謝の祭儀」という新しい名で知られていた。 しかし、この呼びかけは 既に1世紀の終わりに使っていた。 中世の人々は 主の晩餐の記念を「ミサの聖なるいけにえ」と名付けたにもかかわらず 「感謝の祭儀」という名は 今もなお 残っている。

 さて「ミサ」という呼びかけはどこから来たのか? やはり、ローマの初代教会の時代からだ。 というのは、ローマの法律で裁判の終わりを宣言する審判者は「Acta misa ite in pace」即ち「するべきことが終わりました、平和のうちに帰りなさい」と宣言していた。 それを真似て、感謝の祭儀が終わる時に 司祭は「Ite missa est」「感謝の祭儀が終わります、さあ行きましょう、主の平和のうちに!」というのが習慣になった。 そいう訳で、 こんにちの感謝の祭儀を「派遣」の意味を保ちながら「ミサ」と呼ぶようになった。




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