マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音史家たちは、イエスの生涯について自分たちが見たことや聞いたことを、福音を通して単純に宣べ伝えました。しかし彼らは福音のなかでイエスが誰であるかを書かずに、イエスご自身に任せました。なぜなら、イエスは世間に自分を知らせ、啓示するユニークなやり方を持っていたからです。
「いったい、イエスは誰でしょうか」。ナザレの人々はこの質問をしました。預言者イザヤが告げ、イスラエルの民がずっと待っている「救い主」は私だとイエスは、はっきり言葉に出さずに宣言しました。ナザレの人々は、一瞬びっくりしたのち、急に疑いが人々を襲ってきました。彼らにとってイエスは待ち望まれているメシアではあり得ません。ナザレの人々は、昔からイエスと彼の家族や親戚をよく知っているからです。ナザレの人々は「キリストの口から出た恵み深い言葉」を忘れて、外面的な眼差しでイエスを見ているので、彼こそが神が遣わされた救い主であることを見分けることができませんでした。
出エジプト記は「ファラオの軍隊の陣とイスラエルの陣との間に入った、真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた」(参考:出エジプト14,20)ことを教えています。教会の教父たちと神秘主義者たちは、この出来事のうちにキリストの神秘を発見しました。しかし、ナザレの人々はイエスの内にただ人間を見ますのでキリストの神秘性を発見できずに真っ黒な雲に包まれています。もし彼らがイエスを信じているなら、きっとイエスの内に神の光を見、そして彼の「内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形を取って宿っている」(コロサイ2,9)ことを発見するでしょう。
ナザレの人々の信仰を生み出すために、わざとイエスは、昔イスラエルの民のために神から選ばれた預言者エリヤとエリシャのことを思い起こさせます。異邦人の人々はこの二人を通して、預言者に与えられている聖霊の賜物を発見しました。サレプタのやもめとシリア人ナアマンは、普通の人のうちに神の力が働いていることを認めて、神に感謝しました。預言者たちの外面的な姿の内に異邦人は神の選びの神秘を発見しました。サレプタのやもめとナアマンの話を思い起こすことによって、ナザレの人々も同じ発見をするように、イエスは彼らを招きました。
イエスはナザレの市民に属するだけではなく、彼は「肉となった神の言葉」であります。イエスは「わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1,14)と聖ヨハネは証ししています。イエスはナザレの人々が自分自身を信じるように誘いましたが、彼らはイエスを捨てて追い返しました。とんでもない怒りを発揮して、イエスを殺そうとしました。しかし不思議なやり方で逃げることによって「自分の命が神の手の中にあることを」イエスは証ししました。
イエスは「自分の民のところへ来たが、民は彼を受け入れなかった」(ヨハネ1,11)と聖ヨハネは証ししています。弟子のヤコブとヨハネがサマリアの人々に対して行いたかったように、火を降らせ、彼らを焼き滅ぼそうとはイエスはしませんでした。(参照:ルカ9,54)。むしろイエスは神に逆らう人々の暴力を背負いました。故郷の人々を大切にしながら、愛をもってイエスは「強く忍耐し、いらだたず、すべてを耐え忍び、すべてを信じ、すべてを望み、彼の愛はいつまでも耐えることがありません」(参照
:1コリント13,4-8)。
キリストの全生涯と教えは、愛の勝利を宣べ伝えます。すべてを信じ、すべてを赦し、すべてを希望するこの愛で、私たちは愛されています。ですから、イエスについてもっている私たちの疑いを信仰の叫びに、私たちの怒りを感謝の歌と賛美の祈りに、私たちの否定の心を思いやりの心に変化させることが出来るように自分自身を神に任せましょう。今日の詩篇と共に私たちの希望を宣言しましょう。「神よ、あなたの正義と救いのわざを私は昼も夜も告げ知らせます。神よ、あなたは私の希望、私はいつもあなたをたたえます」(参照 :詩編71)。アーメン。
グイノ・ジェラール神父
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