2018年 12月9日(日)C年  待降節第2主日
今日の聖書

第一朗読   バルク 5,1-9

第二朗読  フィリピ 1,4-5,8-11  

ルカによる福音書3,1-6

 ガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得さ皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガせるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」



 紀元 28 年に皇帝ティベリウスと支配者たちは世界を統治していました。 エルサレムの大祭司たちが自分たちの権力を振るって、イスラエルの民を支配している時に、ヨハネと呼ばれている人が現れてきました。 彼は聖霊で満たされ、神の言葉を延べ伝えていました。

 皆に立ち向かって、洗礼者ヨハネは世界が逆転することを告げます。 「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。 曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる」と。 世界の支配者たちが全く実現することができないことをヨハネは約束します。 確かに、皇帝であっても、支配者であっても、世界のおもてを変化させ、すべての谷と山と丘、曲がった道やでこぼこの道をなくすことはできません。 なぜなら、世界の地理を変化させ、新たにすることは神しかできないからです。 ですから、神の全能の前ですべての支配者の頭が下がらなければなりません。

 皇帝ティベリウスの治世から2000年が過ぎたにも拘らず、洗礼者ヨハネの約束は地理の面ではまだ実現されていないと思われます。 しかし、神の言葉は私たちの内に実現されています。 洗礼者ヨハネが約束した、世界の逆転は人の心の中に行なわれています。 確かに神の言葉は私たちが持っている恐れと苦悶の谷を埋めます。 神の言葉は私たちの心にある高慢と虚栄の山、偽善の丘を低くします。 また神の救いが私たちの内に実現されるように、神の言葉は曲がった考えと行いを真っ直ぐにし、人を傷つけるでこぼこの悪い言葉を平らにします。

 日常生活のでこぼこの道に躓いている人々に、神の言葉は開放をもたらします。 解決のできない状態に足踏みする人々や、絶えず同じ問題とぶつかって行き詰まっている人々に、神の言葉は救いをもたらします。 試練の山が人生の地平線を隠し希望の光を奪う時、あるいは落ち込んだ状態の谷を歩む時、または無理解の山と無関心の丘が毎日の風景になっている時、私たちを助け強めるために神の言葉が与えられています。

 神の言葉は、洗礼者ヨハネと同じように私たちを砂漠に連れて行きます。 と言うのは、この砂漠で神は親しく私たちの心に語りますから(参照:ホセア 2,14)。 神の声を聞くことは肝心なことです。 神の言葉を聞き受け止めるのは、力を超える協力をすることではありません。 なぜなら、神は無理なことを願いませんから。 必要なことは、ただ回心することだけです。 言い換えれば自分から離れて、神に自分のすべてを向わせることです。 神への信頼は救いの入り口です。

 ですから、この待降節の間に神が親しく私たちを導くことを承諾しましょう。 命と自由である神の言葉によって私たちが形作られ、新たにされることを心から望みましょう。 「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と洗礼者ヨハネは宣言しました。 クリスマスの貴重な恵みがすべての人に与えられるように、切に祈りましょう。

 イエスはすべての人の救いのためにこの世にお生まれになります。 ですから預言者バルクと声を合わせて神に向かって絶えず祈り願いましょう。 つまり、「神がこの世界の悲しみと不幸の衣を脱ぎ、ご自分の栄光で飾り、そして永遠に正義と平和の衣で包めますように。 そうすれば、すべての人は神の栄光に包まれ、安全に歩むことができるでしょう」(参照:バルク5,1-7)。 アーメン。


            グイノ・ジェラール神父

日曜日のお説教



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