2018年08月19日(日)B年   年間第20主日
今日の聖書

第一朗読   箴言 9,1-6

第二朗読  エフェソ 5,15-20

ヨハネによる福音書 6,51-58

 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 
 「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい」と箴言の書の知恵が誘っています。しかし聖パウロはエフェソの信徒への手紙で「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」と忠告しています。知恵が提案する食事と酒は、懸命な豊かさです。「愚かさを捨て、命を得るために分別の道を進むために」と智恵は招きます。聖パウロは酒が与えるあまり良くない酔いよりも、聖霊が与える霊的な酔いを探し求めるように誘います。

 聖書全体は真(まこと)の幸せに導く道を見つけ、歩むように人々を招きます。この道は知恵と愛の道であり、神による懸命さの道です。聖パウロは今日このメッセージをもう一度聞かせています。「皆さん、愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」と。神の知恵を探し求めることの内に深い喜びがあるので、それ以外のものを求めないように勤めましょう。

 ところが、聖ヨハネは愚かな話と思える不思議なメッセージを聞かせています。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と。この話が愚かな話だと思っても、この言葉は神の知恵をはっきり現しています。「神の愚かさは人よりも賢いです」(1コリント1,25)と聖パウロは証ししています。キリストのように賢くなることとは、完全に、愛に自分自身を引き渡すことです。キリストのように賢い人は、命のパンである聖体の内に知恵を汲む人であり、聖霊の教え導きに自分の心を開く人です。そのような人は、必ず神の無限の愛に辿り着きます。

 全人類を救うために、愛によってイエスがご自分の命を捧げたことを理解して、キリストの御体をいただく人は、いつか自分自身をも与えることを望んでいることを示しています。と言うのは、キリストの体を食べる人は、キリストによって生きたいという決意を表しているからです。なぜなら、キリストの体を食べることによって、キリスト自身となるからです。聖体拝領をするキリスト者は、聖パウロと共に「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが、わたしの内に生きておられるのです」(ガラテ2,20)と宣言します。

 キリスト者にとっては、聖体の内にキリストの本当の存在を信じることだけでは十分ではありません。聖体の秘跡の信仰がそのキリスト者を変化させなければなりません。また、聖体の秘跡の内に全人類のために実現されているキリストの奉献を認めることだけでも十分ではありません。その知識がキリスト者を養い、霊的に成長させなければなりません。キリスト者がキリストの体を受けることで、新しいキリストとなり、信仰の兄弟姉妹の前に、言葉と行いによって神が与える知恵を表す使命を受けています。感謝の内に聖体の秘跡を深く理解し、その神秘に生きていきましょう。アーメン。

                グイノ・ジェラール神父

日曜日のお説教



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