イエスは自分の弟子たちを宣教のために遣わしました。 彼らが持つべきものと持って行ってはいけないものについて、少し考えたいと思います。 まず、弟子たちは邪魔になる荷物を持ってはいけません。 弟子たちが神の摂理だけに寄り頼むようにこの乏しさはとても役に立ちます。 またこの貧しさは弟子たちの証しを信じやすく、信用できるものとします。 キリストを証する人々は神に寄り頼むことを学ばなければなりません。 弟子たちも、キリスト者も「取るに足りない僕であり」(参照:ルカ17,10)「土の器に宝を納めている」(参照:2コリント4,7)からです。
更に、乏しさは偉そうに与えるよりも、謙遜に受けることを弟子たちに教えています。 と言うのは、弟子たちは出会う人々を自分たちの寛大さで満たすために遣わされているのではありません。
むしろ人々から何かを受け止めるために遣わされています。 福音を伝え知らせることは、出会った人に「ご覧なさい、あなたに対してどれほど私は親切でしょうね」と言うことではありません。
むしろ「私にはどうしてもあなたが必要です」と打ち明けることです。
遣わされた弟子たちは、杖を一本持つことが許されています。 この杖は、蛇や野生動物や強盗を追い払うために必要だからです。 病人を癒し、悪霊を追い出すために弟子たちが遣わされているので、あらゆる悪に対してキリストから力と権能を受けたことを彼らははっきりと人々に見せなければなりません。 弟子たちの杖は「モーセの杖」を思い起こさせます。 モーセが昔行ったように、弟子たちも悪の攻撃からご自分の民を救う神の愛の力と慈しみを表す使命を受けたからです。
疲れずに無事に歩くために、弟子たちは「履物、サンダル」を履くことも許されています。 弟子たちの使命は厳しく、宣教の道のりは長いので、弟子たちは自分の体の健康を大切にすることで、成功する可能性を手に入れるのです。
ただ一枚の下着を着ることによって、弟子たちが父なる神に愛され、遣わされていることを表します。 また、委ねられた使命を果たすために「神の子の資格を受け」(参照:ヨハネ1,12)「キリストを衣として着ている」(参照:ガラテ3,27)こと、「聖霊で満たされている」(参照:エフェソ5,18)ことも、この唯一の下着は表しています。
イエスは弟子たちを二人ずつ遣わします。 キリストの時代には、証しや話が真実であることを確認するために二人の証言が必要でした。 しかし難しく、疲れを与え、エネルギーをたくさん必要とする宣教の使命を果たすために、二人で行動すればお互いに助けと励みになることは確かです。 またそれは一致の印(しるし)となります。 なぜなら、同じ話しをし、同じ救いの業を行うために、互いの理解と努力が必要ですから。 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」 (参照:ヨハネ13,35) とイエスは言いました。
「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃(ほこり)を払い落としなさい」 この態度は軽蔑や拒絶を示しているのではありません。 「足の裏の埃を払い」と言うのは、「あなたたちが私たちに与えるものしか受けません。 ですから私たちのサンダルに付いているこの村の塵を返します」と言うことを意味しているのです(参照:ルカ10,11)。
神は私たちを愛し、私たちのために最も良いものを望んでいます。 私たちは皆、全ての人に福音の良い知らせを伝えるために、キリストの名によって自分が住んでいるところへ遣わされています。 ですから、謙遜に、喜びの輝きを持ち、神の摂理に強められて、恐れずに、自分たちの周りに神の愛の素晴らしさを宣べ伝えましょう。 アーメン。
グイノ・ジェラール神父
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