キリストの受難と復活と昇天は同じ事実を表す三つの段階です。 それはイエスのこの世界からの出発です。 大勢の人々が歴史的にキリストの受難を自分の目で見たとしても、主の復活と昇天の出来事は信仰の領域に属しています。
信仰宣言を唱える時に私たちは次のように証ししています。 「イエスは、十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、3日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着きました」と。
「見よ、わたしの僕は栄える。 はるかに高く上げられ、あがめられる」(参照:イザヤ 52,13)と預言者イザヤの口を通して神は約束しました。
それに対して、イエスは「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(参照:ヨハネ14,20)と教えていました。
父なる神と親密に一致しているイエスは、すべてのものの上にあげられたことをエフェソの信徒への手紙を書かれた聖パウロは説明をしました。 主の昇天の出来事が特にそれを私たちに教えています。
私たちを圧迫し、神の子としての私たちの自由を妨げる全ての悪の力を神の右の座に着いたイエスは完全に支配します。 神の栄光の内におられるイエスはご自分の輝かしい勝利で私たちを包みました。
もはや「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、地のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(参照:ローマ8,38-39)。
神の栄光の内に上げられたイエスは、人間が具体的に確かめることからまぬがれたので、信仰によってしか私たちは昇天の神秘を理解することができません。
主の名によって、ここで私たちが集まっていることが、私たちの信仰を強め、キリストと親密に私たちを結び付けます。 目に見える御聖体はイエスが生きていて、私たちがイエスの内に留まり、イエスも私たちの内に留まることを保証しています。
世の終わりまで、御聖体は私たちの間に存在するイエスの目に見える印(しるし)です。
私たちがキリストの体を形づくることやキリストに対する信仰と知識において、一つとなり、成熟した人間になることを聖パウロは、エフェソの信徒への手紙を通して、強く勧めています(参照:エフェソ
4, 12-13)。
地の果てまで弟子たちが遣わされるために、イエスは天に上げられたと福音史家たちが教えています。 またキリストが遣わし、私たちを豊かにする聖霊は私たちの間に新しい使徒、宣教師、指導者を呼び起こすのです。
彼らも地の果てまで救いの良い知らせを伝えるでしょう。 彼らは、言葉と行いによって、神の内に全人類が生かされている事や神と共に生きるように誘われている事を宣べ伝えるようにキリストによって遣わされています。
聖マルコが証ししました。 主が天に上げられていても、地の果てまで遣わされた者たちと共に密接に働いています。 昇天の出来事はキリストの出発であるよりも、イエスの存在を新しいあり方で啓示した出来事です。
言い換えれば、イエスと共に、全人類は天に上げられました。 今からのち、そして永遠にキリストに親密に結ばれた全人類は神に属する一つの部分となりました。
それは、私たち一人ひとりが神の「愛によって造り上げられてゆく」(参照:エフェソ4,16)ためです。 信仰が要求するこの重大な神秘を悟らせるために、また実践するために、来週の聖霊降臨の祝日にあたって聖霊は私たちの上に豊かに注がれるでしょう。
アーメン。
グイノ・ジェラール神父
|