2018年 03月25日(日)B年  枝の主日
今日の聖書

第一朗読   イザヤ 50,4-7

第二朗読  フィリピ 2,6-11

マルコによる福音書 14,1-15、47

 
 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。



  死の瞬間までイエスは、父なる神に対する限りのない愛を忠実に示しました。 同時に、死に至るまで忠実にイエスは、全人類に対する同じ限りのない愛を示しました。 イエスは自分自身で自由に承諾したご受難によって、罪を犯させるように人を引き寄せる悪の力を、砕き滅ぼしました。 罪は律法学者、ファリザイ派の人と大祭司たちを憎しみに陥らせました。罪はピラトと群集を無責任な者そして臆病な者に変化させました。 そして罪はユダを裏切り者にさせ、ペトロでさえもイエスを否定する者にさせ、弟子たちはイエスを一人ぼっちにさせて逃げ去り、イエスから遠ざかる者になりました。

 人間の暴力の力に直面しても、イエスは終わりまで愛を注ぐ人に留まりました。 勿論、受難の時が近づいていることを知っているイエスは、不安と言い表せない苦悶に襲われていました。 ゲッセマネで流した血の汗が、どれほどイエスを一人きりにさせ、孤独にさせたかを現しています。 十字架上でイエスは父なる神からも見捨てられたと叫ばれました。 しかし、言葉で言い表せない孤独と苦しみを越えて、イエスは終わりまで愛する使命を捨てずに忠実でした。 死ぬまで、そして死を超えて、イエスはいつまでも愛する方、赦す方、世を救う方です。

 全人類のために命を捧げたイエスは、私たちに天の門を大きく開きました。 その時からイエスはすべてを新たにし続けます。アダムとエヴァを通して始まった救いの業は発展をなし遂げるために、十字架上でのキリストの死と栄光の復活によって新しい飛を受けました。 確かに、イエスの死は神が望まれた「新しい世界の誕生」です。 同時に、キリストの復活は死と罪を滅ぼした「永遠の命の力」を私たちに与えました。

 今日から始まる聖週間の間に、イエスに感謝する時間を作りましょう。 イエスと一致して晩餐の雰囲気を味わい、十字架の道を歩み、命を豊かに湧き出させるイエスの十字架を礼拝しましょう。 そして最後に、復活の光と喜びを心に受け止める準備をしましょう。 聖週間の典礼に与ることによって、私たちが神の愛の深さと広さを悟り、またローマの百人隊長と共に私たちも、次のように宣言することが出来ますように。 「本当に、この人は神の子だった」と。 アーメン。


            グイノ・ジェラール神父

日曜日のお説教



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