2018年 03月18日(日)B年  四旬節第5主日
今日の聖書

第一朗読    イザヤ63,16-64,7

第二朗読   ヘブライ 5,7-9

ヨハネによる福音書 12,20-33

 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 
  
 不思議な文書を通してヘブライ人への手紙は、今聞いたばかりのヨハネの福音の箇所のテーマを纏(まと)めています。 「キリストは神の子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となりました」と。 罪のない無実のものとして十字架上で死ぬことによって、イエスは私たちに対する神の愛の神秘を啓示しました。 そして死に至るまで示された従順によって、イエスは父なる神の方へ私たちを導くために救いの門を大きく開きました。

 「従順」と言う単語は、ヘブライ語とラテン語で「耳を傾けること」を意味します。 イエスは死ぬまで父なる神の声に耳を傾け言われたことを実現しました。 従順であることは、イエスにとって豊かな実を結ぶことです。 また、イエスにとって死ぬことも豊かな実を結ぶことです。 「はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とイエスは教えました。 イエスの話を聞いたギリシャ人たちは、きっと彼の説明の意味を理解できなかったでしょう。 なぜなら、イエスは自分が死ぬ必要性を話すと同時に、死ぬことに対する恐怖についても語ったからです。 そしてその後直ぐに、イエスはサタンが敗戦することと自分が受ける栄光について語りました。

 「栄光」という単語は、今日の福音の箇所で四回使われています。 イエスは自分が栄光を受けると宣言した途端、神の声がそれを確認します。 「わたしは既に栄光を現した。 再び栄光を現そう」と。 この証しは次のことを意味します。 皆に見捨てられたイエスは必ず「神の子」として啓示され、彼の本当のアイデンティティが公に表明されるのです。 しかしそれは、十字架上での死によってイエスの栄光が啓示されるでしょう。 すべての人は十字架につけられたイエスを仰ぎ見なければなりません(参照:ヨハネ19,37) 。 地上から上げられたイエスは、すべての人を自分のもとへ引き寄せます(参照:ヨハネ12,32)。 十字架につけられたイエスを見ることによって、私たちを救うためにご自分の命を与える神の無限な愛を人々が見つけるように招かれています。

 自分自身に死ななければ愛することは無理です。 実を結ぶには自分自身に死ぬことが必要です。 愛するために、自分の利益や考えや計画や小さな楽しみを退けて、他の人の幸せを選ばなければなりません。「キリスト・イエスにあっていただいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いにいかしなさい」(参照:図説大聖書第6巻フィリピ2,5)と聖パウロは勧めます。 キリストのように生きることはとても難しいです。

しかし聖パウロが勧めることを、個人の水準よりも、特に共同体の水準として行なうべきです。 私たちが形作っている教会も自分自身に死ぬことで、もっと世界に心を開くことが肝心です。 愛の行いをしない教会、ますます正義や和解や真理を望まない共同体は、決して「キリストの教会」と呼べません。

 あと数日で、私たちは聖週間に入ります。 自分自身に死ぬことによって、愛に生きるようにと、イエスは再び私たちを誘います。 与える人は豊かに受け入れ、「自分の命を失う人はそれを保って永遠に生きる」と、イエスは今日私たちに思い起こさせました。 私たちがそれを実現するために、イエスは私たちの直ぐそばにいらっしゃいます。 ですから、ますます父なる神の方へ引き寄せられるためにイエスを仰ぎ見ましょう。 イエスは必ず「愛の完成」まで、私たちを導くからです。 アーメン。




             グイノ・ジェラール神父

日曜日のお説教



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