ご存じのようにイエスの敵たちは、3つのグループの人たちでした。
一番の敵は、サドカイ派の人たちで、彼らは政治と宗教の一番高いレベルの立場に置かれて、イスラエルの国を占領するローマの支配者と平気で結託する人たちです。 2つ目のグループは、律法を無視し、ヘロデ王に従うヘロデ派の人たちで彼らもヘロデ王の権力をコントロールするローマ人の協力者たちです。
最後のグループの人たちは、自分が清い、模範的だと自慢するファリサイ派の人たちで、彼らはローマ人との関係をすべて強く拒んでいます。 自分たちが異邦人や徴税人や罪びとと全く違っていることを示すために、彼らはいろいろな宗教的な祭儀や行いを増やしていました。
この三つのグループは、一致するものがないにもかかわらず、イエスを罠に陥らせるためには意見が一致しました。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」と彼らは尋ねます。
このファリサイ派の人々は、決して律法の正しい理解を勉強しようと思っていません、むしろイエスの名声を台なしにする決意を持っています。 彼らの罠に直面して、イエスの答えは一般の人にもとても有名です。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。 そう言って、イエスは厳しくファリサイ派の偽善を告発し、また彼らを神の意志の前に置くのです。 なぜなら、律法を守るつもりでファリサイ派の人々は、皇帝に相応しいものを神に当てはめるからです。
ファリサイ派の人々は、「神が望まれた罰として、ローマ人がイスラエルの地を占領することになった」と信じていました。 ですから彼らにとっては「ローマ人に反抗することは」神の計画に反抗することであり、また、「ローマ人と協力し結託することは」公に大きな罪を犯すことです。
ファリサイ派の人々は、イエスにお世辞を言いながら彼に出会いました。
「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています」と。 このお世辞の言葉に応えて、イエスは彼らに神の道を見せながら、はっきりと彼らが神に対して、自分たちの責任を果たすように勧めます。
お金も、政治の権力も人間の作ったものです。
上手に使えばお金と権力は愛の道具になる可能性があります。 しかし、悪い使い方をするとお金も権力も、とても危険な状態を起こすことができます。 神の似姿で創られた人間は、政治の権力やお金の力、経済の働きに属する者ではありません。
私たちは「神の神殿」(参照:1コリント3,16)です。 人間はただ神に属する者です。 神が愛するように、人間同士が愛するために神の似姿に創造されました。
「皇帝は全能でないこと、そして皇帝は神でないこと」を自分の反対者たちにイエスは思い起こさせました。
ローマの皇帝は自分が支配している人々に税金を納めることを強要することができますが、人の内面的な生き方については全く権利がありません。 「神のものは神に返すこと」とは、全人類の幸福のために自分の責任を果たすことを意味します。
これこそファリサイ派の人々が行いたい本当の「義の行い」です。 私たちは神の似姿で創造されたのですから、全人類の世話をしたキリストを模範としなければなりません。
ですから、愛する使命を実践するために、今聞いた聖パウロの勧めの言葉に、もう一度耳を傾けましょう。 「わたしたちが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
神に愛されている兄弟たち、わたしたちが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」と。 アーメン。
グイノ・ジェラール神父
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