東方では、結婚の際に1年前から招待客にお知らせをする習慣があります。そして、結婚の日が近づいて来ると、もう一度お客さまを呼ぶのが伝統的なやり方です。今聞いたばかりのたとえ話は、この習慣に従って王様が行いました。この王様とは、ご自分の子イエスの披露宴に私たち一人ひとりを招く神ご自身です。預言者イザヤはずっと前から私たちに神の招きを聞かせました。「その日には、万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」と。
今日、教会はその招きを新たにします。しかし、神の食卓に食欲のない全人類をどのようにして座らせるのでしょうか。たとえ話によると最初に招かれた客はみんな考えられない暴力で王の招きを無視して、その上、王が遣わした召し使いを虐待して殺してしまいました。このたとえ話の王と同じように、神も諦めずに披露宴の宴会場を満たすために至る所で人を招き続けるでしょう。どんなに社会的状況や身体的な状態、あるいは道徳心が悪くても、私たちは例外なく招かれています。神は限りなく良い神であり、神の慈しみはこの世を変容させ救います。イエスは「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」(マタイ9,12)。また、イエスは「失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19,10)。
「わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です」と聖パウロは証ししました。私たちはみんな、神の愛によって変容されるに相応しい人です。神の愛は、宴会に参加するために必要な礼服である神の栄光で私たちを包みます。この礼服、すなわち救いの衣は、神の慈しみと愛で、聖霊によって織りあげられています。これを理解するために聖ヨハネの黙示禄の言葉を思い起こしましょう。「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は、用意を整えた。花嫁は輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙示19,7-8)と。
洗礼を受けた時に私たちはこの宴会の礼服、祝いの衣を着ました。私たちは神の喜びのうちに入るように、また、神が私たちのために行ったことを私たちが感謝するように招かれています。私たちがまったく出来ないことを、神が私たちに代わって行います。神は私たちみんなを同じ礼服、同じ美しさ、同じ栄光で包みます。神はどうしても、私たちと一致して喜びたいので、ご自分のすべてで私たちを包みます。
主の食事に招かれている私たちは幸いです。「楽の音に合わせて喜びの叫びのうちに主を迎えましょう」(参照:詩編95,2)。キリストの教会、また私たちの共同体が神の喜びのしるしとなるように聖霊に願いましょう。なぜなら、ご自分の子イエスによって贖われたこの世のすべての人々を、神はその喜びのうちに引き寄せたいからです。アーメン。
グイノ・ジェラール神父
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