2017年 10月01日(日)A年  年間第26主日
今日の聖書

第一朗読   エゼキエル18,25-28

第二朗読  フィリピ2,1-11  

マタイによる福音書21,28-32

 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」


   私たちの心はいつも矛盾を抱えています。 なぜなら、私たちの心は一緒に「はい」と「いいえ」を言うからです。 それだけではなく迷って、自分が決めたことの反対の方向に心が向かうこともあります。 聖パウロはこの矛盾を見事に表現しています。 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7,19)と。

 この状態は疑いもなく、現代社会における一つの目立つ悲劇です。 人々の約束は実現されず、彼らの行いはその逆を行います。 というのは、政治家のスピーチの公約やメディアの賢い説明もすべて怪しいものであるので、容易に私たちは信じることができないです。

 「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」 ぶどう園で働くことは具体的な行いによって、この世を前よりも良いものとすることです。 そこで、福音は私たちに簡単なことを要求します。 それはほんの少しのいつくしみ、無償の微笑み、分かち合いの実践、友愛訪問、他の人々のために捧げられた時間、貸したほんの少しのお金などです。 言い換えれば、ぶどう園へ行くことは他の人々のところへ行って、彼らのために良いことを行うことです。

 フィリピの信徒への手紙がその正しい態度を教えています。 それは、すべての人に謙遜に仕えたイエスを私たちが真似るように聖パウロは勧めています。 「どうか、キリストのうちにある同じ思いを抱き、同じ愛をもち、心を合わせ、思いを一つにして、わたしを喜びで満たしてください」と。 自分に生きるよりも、自分の事ばかりを考えるよりも、私たちが人のために生き、人のことを考えることこそ「父なる神のぶどう園で働く」ことです。

 私たちは度々意見を変え、言葉と行いが矛盾していることを知っているので、神は私たちに新しく出発するチャンスを与え続けます。 これこそ、今日の預言者エゼキエルのメッセージです。 「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない」と。 私たちの過去の傷にも拘らず、犯した罪の悔いの重さにも拘らず、人はいつか変わることができると神は信じています。 完全に失われた者は見捨てられていません。 必ず私たちは変わることができ、自分の運命は始めから決められているのではありません。 人が神に対して忠実であれば、神と共にすべてを新たにすることができるのです。 そういうことを納得させるために、イエスは徴税人と娼婦たちを模範として私たちに見せます。 彼らはイエスの愛のメッセージを信じたので、自分の生き方が完全に変化しました。確かに、彼らは間違った生き方によって、神に最初に言った「いいえ」が、新しい生き方によって生きた泉のように湧き出る「はい」を神に向かって言えるようになりました。

  神の恵みを受けて悔い改める人は、罪を犯したことを深く悲しみながら、赦されたことで喜びの涙を流します。 この涙は、新しい洗礼のように人を清め、そしてこの涙はその人を新たにします。 「回心して、そうすれば生きるでしょう」(参照:エゼキエル18,32)と神が私たちに願っています。「回心して福音を信じなさい」(参照:マルコ:1,14)と、イエスもまた私たちに勧めています。 私たちは他の人よりも良い者ではないので、神によってみんなが新たにされる必要があります。 ですから、私たちは自分の心の中に回心する決意を失わないように努めましょう。 そして、揺るぎない信頼をもって父なる神の愛とすべてを新たにする聖霊の力に自分のすべてを委ねましょう。 アーメン。


             グイノ・ジェラール神父

日曜日のお説教



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