今 月 の こ と ば
2019年03月


 ある町にとても自信過剰な男がいました。この男は自分の家で一番広い部屋の天井と壁と床を鏡張りにしました。一日中この部屋に入って満足している男は、自分の姿を隅から隅まで細かく見ていました。自分を上から見て、横から見て、下からも見て、前と後ろもよく見ることで、男は生きる力を受けていると思い込んでいました。自分の姿をずっと見ていれば、日常生活に起こって来る出来事に何も恐れることなく平常心で向き合えると信じていました。

 ある日のこと、男はあまりに急いでいたので、鏡の部屋を出るときにドアを閉めるのを忘れてしまいました。男が家を出た後、彼の番犬の大きなドーベルマンがこの部屋の中に入りました。この番犬は鏡の部屋で自分に似た犬をたくさん見たので、彼らの臭いを嗅ごうとしました。当然ながら、何も臭いません。そのため、怒って唸(うな)りました。そうしたところ、他のすべての犬も同じように唸るので、番犬はますます怒って彼らに全力で襲いかかりました。すると、鏡と思いきりぶつかり、その痛さで吠えてしまいました。番犬は何度も体当たりをして、自分の主人の家を鏡の中の犬たちから守るため、終りのない戦いを精一杯行いました。とうとう番犬は疲れ果て、鏡の部屋の中で血を吐いて死んでしまいました。

 男が家に戻ったとき、自分の番犬が鏡の部屋の中で血を吐いて死んでいることに気がつきました。男は大きなショックを受けました。この鏡の部屋をもう二度と使わないよう、部屋の入り口を壁でふさごうと決めました。しかし、一人の召使いが男に次のように勧めました。「ご主人様、この部屋を閉じてしまうよりも、開けたままにしてください。そうすれば、この部屋はみんなに大切なことを教えてくれることができるからです」。「お前が何を言っているのか、理解できない。もっと詳しく説明してくれ」男は召使いに言いました。

 「この世は、ご主人様の鏡の部屋によく似ています。自分の周囲の人々は、自分が周りに与える姿をそのまま反映しているのです。自分が幸せを示すなら、周りの人も幸せを見せます。自分が悲しいとき、人々は悲しく寂しい姿を見せます。自分が心配すれば、皆もきっと心配するでしょう。この世において私たちは絶えず自分が与えた姿と戦っています。きっと死ぬまでそうでしょう。ご主人様の鏡の部屋は、重要なことを教えているのです。何をしても、何を言っても、私たちは自分自身の美しい姿を探しているのです。だからこそ、私たちは周囲に自分自身を見せることが好きなのです。私たちは自分が褒められること、認められること、自分の意見を納得させることを好みます。なのに、私たちは人が打ち明けたいことに耳を傾けずに、自分の言いたい言葉を人に聞かせがちです。私たちは人々を、自分を写す鏡のように見ています。自分がしたいことだけを相手に投影させているのです。このようなことをしていると最後には、死に至る生き方となってしまうでしょう。ですから、ご主人様の鏡の部屋を開けたままにしてください。そして人々に自分を見せるよりも、周りにいる一人ひとりをよく見るようにさせましょう。自分の周囲から謙虚に学ぶことが肝心だと思います」召使いはそう説明しました。彼の一途で賢明な話を聞いて、男は新しい生き方を発見しました。もう一度新しく生きようと決めたのです。

 私たちが識別を持つようにと聖パウロは願っています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となるように」(フィリピ1,9-10)。また、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(1コリント15,10)とも聖パウロは言いました。自分がなりたい姿、人々に見せたい姿を一度忘れましょう。そして、自分が人々に与えられている神の賜物だと考えた方が賢明なのです。周囲の人々も、私たちのための神の賜物だということを度々思い出す方がいいのです。そうすれば、人々の失敗や、過ち、欠点にもかかわらず、自分としてありのままに生きる喜びを深く感じるでしょう。この生き方を得るために全生涯が必要かも知れませんが、チャレンジすることが肝心です。


                主任司祭 グイノ・ジェラール神父
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