今 月 の こ と ば
2017年06月
鈴虫(すずむし)の声

  アパッチ族のインディアンはニューヨークの友だちと共に町を見物していました。彼らがマンハッタンのタイムズ・スクエアに着いた時、ちょうどお昼でした。大勢の人が食事のために外に出て、大きな声で話している人やタクシーのクラクションのけたたましい音、車のタイヤがきしむ音、救急車と消防車の現場へ急ぐサイレンの音などで、あまりにも騒がしいので人々の耳を聞こえなくしていました。その時、インディアンが友だちの歩みを止めて「私には、鈴虫の鳴き声が聞こえます」と言いました。「耳が聞こえないような喧しさの中で、鳴いている鈴虫の声を聞くのは到底無理です。あなたの耳は、おかしいのではないですか」とニューヨークの友だちは答えました。「いいえ、私にははっきり聞こえています」と言って、インディアンは暫くの間、聞き耳を立てていました。やがて、道を横切って、反対側に植えてある小さな木のそばに近寄りました。そして、木の枝をゆっくり見て「ほら、見て」と、指を指(さ)して自分の友だちに鳴いている一匹の鈴虫を見せました。

  「ええっ、信じられない。あなたはスーパーマンのような耳を持っているのですね」とニュ―ヨークの友だちは叫びました。「いいえ、私の耳はあなたの耳と同じです。ただ、問題は自分が何を聞きたいのかということだけです」とインディアンは答えました。「いくら私が望んでも私には無理ですよ。私はこんな騒がしい騒音の中で、鳴いている鈴虫の声を聞く事など絶対に出来ないでしょう」とニューヨークの友だちは強く言いました。「確かに、そうかも知れません。しかし、人は必ず、自分にとって大切な物事に敏感な耳を持っています。さあ、よく見て、それをあなたに直ぐに見せますから」。そう言いながらインディアンは、何枚かの小銭を道に投げました。すると、町の喧しい騒音にも拘らず、10メートル位離れていても多くの人々が振り向いて、今の音はなに…、小銭を落としたような音だったけど…どうなっているの…。その小銭は、もしかしたら自分の物ではないかと思い、確かめようとしました。「ほら、見たでしょ。私があなたに説明したことが、分かっていただけましたか。人は自分が聞きたいことや自分にとって大事な物事に対してしか、敏感な耳を持っていないのです。」とインディアンは言いました。

  「耳のある人は聞きなさい」(ルカ8,8)という願いは、聖書全体に響いています。ご自身が選んだイスラエルの民に、神は何世紀にも亘(わた)ってこの願いを繰り返しました(参照:申命記9,1)。イエスも自分を囲んでいる群衆に、注意深く良く聞くように願っています(参照:マタイ15,10)。出鱈目(でたらめ)、悪口、愚かな言動に耳を傾ける事は、誰にでも出来てとても簡単です。しかし、真実と真理の言葉、命と知恵を与える言葉、救いと慰めを与える神の言葉に注意深く耳を傾けることは、至難の業です。なぜかこれらの神の言葉は、一方の耳に入って直ぐに他方の耳から出て行ってしまいます。皆さんもご存じのように、ミサの時に聞いた福音の内容は、一時間後には忘れてしまいます。なぜなら、それはきっと私たちが、神の言葉に対する飢えや渇きを十分に感じていないからです。また聖書の教えを何回も聞いているので、新しい教えとして受けるのを諦めているのかも知れません。神の言葉への飢えと渇きを持つ人は、必ず、日常生活の様々な騒音の中にも神の囁(ささや)きを聞き分ける人になります。とにかく、耳の聞こえない人とならないように、自分の耳に大切な物事や永遠に残る物事を迎え入れましょう。

                         主任司祭 グイノ・ジェラール神父
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