今 月 の こ と ば
2017年05月
先生の教え
 
  中学校のある先生は、生徒たちの判断力を試すために、水の入った小さなカップを持って教室に入って来ました。そして次のように質問しました。「君たちは、この水の入った小さなカップの重さは何グラムだと思いますか?」「ええっと、多分100グラム」「いや、125グラム位だよ」と生徒たちは口々に答えました。「そうかぁ。でもこの小さなカップの重さを量らない限り、正確には分からないでしょう。確かにこの小さなカップはとても軽いです。では、もし私が腕を伸ばしたまま、この軽い小さなカップを数分間持っていたならどうなるでしょうか?さあ、考えてください」と先生が言うと、数人の生徒が「何にも起こらないよ」と答えました。

  「では、もし私がこれを1時間持ち続けるなら、どうでしょうか?」と先生はまた質問しました。「先生の腕は段々重くなり、そして苦しくなると思う」と、ある生徒が直ぐに答えました。「そうだね、その通りです。では、これを一日中持ち続けるなら…?」と先生はまた質問しました。生徒たちは暫く沈黙して考えた後、ある生徒が「分らないけど、きっと先生の腕は重くなり、段々と痛みを感じるでしょう。そして先生の腕の筋肉がこむら返りを起こすか、あるいは痙攣を起こし、もっと悪いことには先生の脳は麻痺状態に陥り、先生を直ぐ病院へ連れて行かなければならなくなるかも知れません」と答えました。それを聞いて、先生も生徒たちもゲラゲラと大笑いをしました。

  「君は正しい答えを出しました、ありがとう。でも、私が一日中この水の入った小さなカップを持ち続けたなら、その間にこの小さなカップの重さは変わるでしょうか?」と先生が改めて質問すると「変わらないです」と生徒たちは声を合わせて返答しました。「じゃあ、そうであれば、どうして私の腕の状態が段々悪くなるのかなぁ?」と先生が聞くと「それは腕の筋肉と神経が無理やりに長く使われて、ストレスを受けているからです」と数人の生徒が答えました。「はい、その通りです。では、私の腕の痛みを止めるためには何をすればよいでしょうか?」と先生は聞き返しました。「簡単です。そのカップをどこかに置いてください」と、冗談が好きな生徒は笑いながら答えました。

 そこで先生は真剣に生徒たちを見回しながら、次の説明をしました。「君たちに傷を与える問題は、この水の入った小さなカップによく似ています。と言うのは、いじめや侮辱や失敗、批判などの君たちを苦しめる問題を頭の中で数分間、或いは1時間位思い起こしても、そんなに大きなストレスを生み出さないでしょう。しかし、もし一日中、何週間、或いは何年間も続けてこの問題を思い起こすなら、小さい問題であっても段々と重くなります。そして君たちの人生は苦しくなり、君たちの考えが麻痺状態に陥って、もはや落ち着いた状態では何もできなくなります。ですから、君たちの人生を苦しめる問題と戦うことは大切ですが、それが解決ができない時には直ぐにその問題を忘れてしまいなさい。さもないと君たちの人生は暗く重くなり、苦痛の消えない人生になります。もっと悪いことには、ずっとこの問題を思い巡らし続けると、君たちから安らぎと平安な眠りを奪ってしまい、君たちを沈んだ状態や絶望的な状態に陥らせ、あるいは復讐するように導くかも知れません」。

 「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(エフェソ4,26)と聖パウロは教えています。心の中に怒り、恨み、赦しの否定、或いは偏見を持ち続け、それについて悪い考えを思い巡らすなら、決して心の平和は訪れません。人生のストレスを追い払うためには、自分を苦しめる問題と戦ってもよいですが、問題を起こした人を早めに赦す方がよほど良いことです。「無慈悲、いきどおり、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦しってくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4,31-32)と聖パウロは、先生として私たちに教え勧めます。人の過ちや不正な行い、不愉快な言葉、失礼な態度などの小さい問題は、背負いきれないものにならないうちに赦しましょう。赦しは幸せの安全な道ですから。

                         主任司祭 グイノ・ジェラール神父
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