今 月 の こ と ば
2017年04月
反映(鏡のように)
 
 ある年寄りの神父は、小さな観光の村の駅の前で、長椅子に座って駅から出てくる人々を観察しようと思いました。ロザリオの神秘を祈りながら、神父は間もなく来る電車を待っていました。暫くすると電車が到着して、数人の乗客が電車から降りて来ました。その中に大きな荷物を運んでいる青年が、神父を見て尋ねました。「こんにちは。私は初めてこの村に来ました。数泊滞在してから、他の観光地に行くつもりです。ところで、神父様はこの村の人々を他の誰よりもよくご存じですから教えてください。この村の人々は、どんな人たちですか。」すると神父は、この人を優しく見つめて「あなたが今離れて来た町の人々は、どんな人でしたか」と尋ね返しました。青年は「ああ、彼らはとんでもない人たちでした。高慢で、全く面白くなく、冷たくて、わがままな人たちでした。ですから、私はあの町から出てきました」。すると、年寄りの神父は「それなら、あなたはこの村で、あなたが出て来た町の人々と、全く同じの人々と出会うでしょう」と答えました。「ああ、そう…」と言って、青年はふくれっ面をして言いました。そして、彼は自分の大きな荷物を引きずりながら、村のホテルを探しに行ってしまいました。

 駅の近くで自分の車を洗っていた村の村長は、この二人の話をよく聞いていました。そして村長は、神父の言った言葉が非常に気になり、悩んだ末に神父に今の話について尋ねようとした途端、ちょうど一台の観光バスが神父の前で止まりました。バスから降りて来たお客の中の一人の派手な服を着た青年が、神父に近寄り次のように尋ねました。「こんにちは神父様、私は初めてこの村の観光に来ました。きっと神父様は、他の誰よりも良くご存じでしょうから教えてください。この村の人たちはどんな人でしょうか」。神父はこの人を優しく見つめて「あなたが出て来られた町の人々は、どんな人たちでしたか」と尋ね返しました。「そうですね、とてもいい人たちでした。彼らはお客さんを歓迎するのに優れていて、思いやりの溢れた人々でした。ですから、あの町から離れる時、とても寂しかったです。なぜなら直ぐに町の人々の中で友達を作ることができましたから、本当にあの町の人々は素晴らしい人々でした」と、青年は神父に答えました。すると神父は「それなら、あなたはこの村でもあなたが出て来た町の人々と、全く同じ人々と出会って、友達になるでしょう」と答えました。「ああ、それはよかった」と言って、青年は微笑みながらバスの団体の乗客を追いかけるために走って行きました。

 先ほどからずっと自分の車を洗っていた村長は、この二人の話もしっかり聞いていました。そして、村長は神父に自分の意見と文句を言いたくて我慢できずに「神父様、どうして同じ質問に違った答えをするのでしょうか。人によって村の人々を悪い者にし、もう一方の人には村の人々を素晴らしい者だとするのはなぜですか。説明してください」と言いました。神父は村長に答えました。「人は誰であろうと、自分の心に特別な世界を持っています。どこから来ても、自分の過去の中で良いものを見つけようとしない人は、どこへ行ってもよい物事を見つけられないでしょう。たとえこの素晴らしい村の中でもです。反対に、前の町で直ぐに友だちを作ったあの青年は、この村の人との間でもきっと新しい友を直ぐに見つけるでしょう。人々の態度はいつも私たち自身を映した鏡ですから」と、神父は説明しました。

 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7,12、ルカ6,31)とイエスは言われました。偏見をもって人を批判することは、とても簡単です。心に抱いている不満と恐れのせいで、人を避ける理由を見つけること、人を悪く見ることも簡単です。しかし、心を開いて、遠慮なく思いやりの気持ちで自分のありのままを人に見せる人は、大勢の人たちの良さと寛大さを自然に引き出し、そしてまたそれで自分自身の心を豊かにします。私たちは気付かないうちに、私たちの歩き方や話し方や態度に、私たちの内面的な姿を人々に表わしています。それを見る人は自然にそれに反応します。私たちが住む世界は、良いか悪いかの答えが自分の心にあるので、直ぐ解ります。確かに、上記の物語の神父が教えたように、自分の周りの雰囲気や出会う人々や出来事は、必ず私たちの心にあるものを鏡のように映して見せているのです。   


                         主任司祭 グイノ・ジェラール神父
「今月のことば」目次へ
     HOMEへ