今 月 の こ と ば
2016年05月
ねずみ捕り器

 小さな畜産農場に住んでいるあるネズミは、この農場の婦人が自分の隠れている壁の割れ目のすぐそばに、一台のねずみ捕り器を置いていることに気が付きました。恐怖のあまり自分を失って、このネズミは動物たちが集まっている、干し草を入れてある納屋の方へ走りました。「大変だ、大変だ。家にねずみ捕り器がある。大変だ。」と叫び始めました。

 「君、きみ。それを知らせて何の得があるのでしょうか。君が問題にしているねずみ捕り器は、私とは全く関係がない。さあ、邪魔、邪魔、早くあっちへ行ってちょうだい。」と最初に出会った雄鶏(おんどり)が、偉そうに答えました。それを聞いてネズミは、今度はある肥えた豚に「大変だ、大変だ。家にねずみ捕り器がある。大変だ。」と真剣に忠告しました。「君には気の毒だけれども、私には何もできません。まあ、安心してください。せめて君の無事と安全のために祈ることを約束します。」と同情的な態度を示しながら、肥えた豚は答えました。諦めずにネズミは、今度は元気な牛にもねずみ捕り器の危険を知らせました。「大変だ、大変だ。家にねずみ捕り器がある。大変だ。」と叫びました。これについて、牛は何も答えずにネズミにただ背を向けただけでした。この動物たちの理解も助けも受けることが出来なかったので、ネズミは寂しくなって、仕掛けられたねずみ捕り器を上手に避けながら、自分の隠れ場所に戻りました。

 その夜、あのねずみ捕り器が何かを捕えた音がしました。朝早くまだ暗いうちに農場の婦人は、ねずみ捕り器を見に行きました。電気がついていなかったので、暗闇の中で、農場の婦人は毒蛇のしっぽが、ねずみ捕り器に挟まれていることに気がつかずに、手でねずみ捕り器を掴みました。すると、しっぽが挟まったままでねずみ捕り器と一緒に急に引っ張られてびっくりした毒蛇は、彼女に噛みつきました。大怪我をした農場の婦人は、病院に行き、治療を受けて家に戻りました。しかし高い熱がなかなか下がりませんでした。見舞いに来た近所の婦人が、昔の言い伝えを信じて「雄鶏のスープを飲めば、熱が下がりますよ。」と言いました。農場の婦人の夫は、それを聞いて偉そうな雄鶏を殺すために外へ出ました。しかし近所の婦人たちの作ったスープを飲んでも、彼女の熱は下がりませんでした。

 次の日にもう一度見舞いに来た婦人たちは「雄鶏のスープで熱が下がらなかったのなら、きっと豚肉の鍋なら熱が下がるに違いありません。」と言いました。自分の妻の元気な姿をもう一度見たかった夫は、今度は肥えた豚を殺しました。しかし、残念なことに豚肉の鍋も彼女を救うことはできませんでした。数日後、彼女は亡くなりました。夫は、彼女のお通夜と葬儀に出席した大勢の人々に食事を振る舞うために、今度は元気な牛を殺すことになりました。壁の割れ目からこれらの出来事の結末を見ていたネズミは「せっかく、ねずみ捕り器の危険を知らせたのに…。」と一人で考えました。

 「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10,12)と聖パウロは忠告します。誰かがあなたに自分の問題を打ち明けるなら、それが自分と全く関係のないものだと考えないでください。この物語が教えるように、誰か一人が危険を冒している、あるいは誰かの生命が危ぶまれていることを知るなら、それは実は、あなたと関係のある問題であることを忘れないでください。無関心と知らん顔は、必ず他の思いがけない危険を引き寄せるからです。もちろん、委ねられた問題の解決のために祈ることが必要です。しかし具体的な支えや慰めや励まし、あるいは友情の行いがその祈りに伴わないなら、決してよい効果をもたらしません。聖パウロに倣って私たちも「何とかして何人かでも救うために、すべての人に対してすべてのものになりましょう」(参照:1コリント9,22)。


                         主任司祭 グイノ・ジェラール神父
「今月のことば」目次へ
     HOMEへ