今 月 の こ と ば
2016年04月
ティーカップの試練 

 私はティーカップになる前は粘土の塊でした。ある日、有名な陶工が私を掴んで、強く私をたたきながら粘土の中の空気を抜いて、新しい姿を私に与えました。勿論、その時私は全身が凄く痛かったので、彼が台に私をたたきつけるのを止めるように頼みました。しかし陶工は笑いながら「まだ、まだ」と答えました。暫くしてから、彼は私を轆轤(ろくろ)の上に乗せ、めまいを起こして気分が悪くなり、吐き気をもよおすくらい私を回転させました。私は、どうして彼が私にこんなに酷いことをするのか全く理解できませんでした。長い時間の轆轤の急速回転がやっと終わると、次に、陶工は火の中に私を入れました。窯のガラスのはまった窓から彼の顔が見えたので、私は精一杯ここから私を出すように懇願しました。しかし彼は頷くだけで、私に微笑みかけながら「まだ、まだ」とだけ答えました。

 そして、急に陶工は私を窯の外に出して、今度は私の表面のボコボコを直すために私を磨き始めました。そして、ブラシをかけた後、彼は筆を使って私の体に色んな絵を描き、綺麗な色を塗り始めました。しかし、毒性のある絵具のせいで、私は死ぬのではないかと思いました。私は、気を失う前に必死の思いで「お願いです。やめてください」と叫びました。しかし、いつものように、陶工はニコニコしながら「まだ、まだ」と私に答えました。それを聞いて直ぐに、私は気を失いました。

 第二の窯の熱さで、私は意識を取り戻しました。この窯は最初の窯よりも、もっと熱かったので、私は泣きながら陶工に私をここから出してくれるように頼みましたが、彼は相変わらず微笑みながら「まだ、まだ」と言うだけでした。私は再び意識を失いました。それはどれ位続いたのか分かりませんが、「今だ!」という陶工の声で私は気が付いて意識を取り戻しました。陶工は丁寧に自分の手で私を取りあげて、飾り棚に置きました。そして私の前に鏡を出しながら「さあ、君を見なさい」と微笑みながら言いました。「えっ…!」私はびっくりしました。なぜなら、私はとても美しいティーカップになってしまったからです。耐え忍んだすべての試練が、私を変容させました。

 驚いている私を見て、陶工は次の説明をしました。「よく理解して欲しい。私は君をたたいたり、成形した時、君が苦しんでいることをよく知っていました。私の回す轆轤で君は気分が悪くなり、吐き気がすることもよく知っていました。しかし、もし私が君に何もしなかったら、君はただ乾燥してかさかさになった粘土の塊でしかありませんでした。この試練のお陰で、君の個性が成長し発展しました。勿論、窯の熱さは耐えがたく、忍び難い試みです。しかし、それを君が避けたら、君はあっという間にボロボロになってしまっていたでしょう。ブラシの助け、そして毒性のある絵具のお陰で君は魅力的な洒落たティーカップになりました。今、君はとても煌(きら)びやかです。確かに、第二の窯は恐ろしい試練を君に与えました。その結果、君は今、日常生活の思いがけない出来事を乗り越える可能性を持っています。私の苦労で、弱かった君がとても忍耐強いものになりました。君が知らない間に、私は君の弱さから揺るぎない力を引き出しました。私は最初から君を見て、大切にしようと決めていました。なぜなら、君はずっと私と共に留まるからです」と。

 この話のティーカップはあなた自身です。そして、陶工は神です。昔、預言者イザヤはこれに似たたとえ話を語りました。「主よ、わたしたちは粘土であり、あなたは陶工である。わたしたちは皆、あなたの御手の業です」(参照:イザヤ64,7)。この世を作る前から神は私たちを愛し、選び、揺るぎない慈しみを注ぎながら、人生の様々な試練を通して、絶えず愛の完成まで導きます。この人生が終わるとき、神は完全になった私たちを見て「それはよし」と言われるでしょう。ご自身の姿にかたどって人間を創造された時、神がそれを言わなかったのは(参照:創世記1,27)、人間が完全になるためには、成長をしなければならないからです。ですから、神が私たちに望まれることを私たちは実現しましょう。人生の様々な試練を乗り越えて「神が完全であるように、私たちも完全な者になりましょう」。(参照:マタイ5,48)

                         主任司祭 グイノ・ジェラール神父
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