今 月 の こ と ば
2015年12月
いつくしみ

 これは本当にあった実話です。二十歳のヨハネは自分の家族に対して赦してもらえないような悪いことをしてしまいました。とても怒った父親は「ここから出て行って、もう二度とこの家に足を踏み入れるな」と怒鳴ってヨハネを追い出しました。父に勘当されたヨハネは、死ぬほどつらい苦しみを味わいながら憂鬱な顔をして家を出ました。しかしヨハネは、自分のお母さんの寂しそうな涙を思い出して、どうしても両親に赦してもらおうと心から望み始めました。暫くしてから、よく反省したヨハネは両親に次のような手紙を書きました。「本当に僕は悪いことをしました。あれから深く反省して、過ちを悔い改めて、今は僕のしたことを悔いて反省し、悔しいと思っています。僕は確かに最低の人間で、人間のクズだと思います。本当にごめんなさい。心から悔い改める子供として、お父さんとお母さんの赦しを願います。この手紙の封筒に僕の住所は書きません。ただ、お願いします。もし、お父さんとお母さんが僕を赦してくださるのなら、目に見える印として、家の前にあるリンゴの長い並木道の最後の木の枝に白い布をかけてください。それを見れば、僕が家に戻ることが許されているかどうか分かるでしょう」と。

 そして、ヨハネは自分の犯した悪い行為を考えれば考えるほど、両親の赦しを強く疑うようになりました。時間が経つにつれ、両親の答えを知ることも恐れるようになりました。手紙を出してから二週間が過ぎた頃、ヨハネは親しい友のマルコを呼んで、事情をよく説明しました。「僕の車で一緒に両親に願ったしるしを見に行って欲しい。マルコ、君が運転してくれるかい。僕と次の約束をしよう。僕の家から五百メートル位離れたところで、僕は目を閉じるので、君はリンゴの並木道を車でゆっくり近寄ってくれるかい。両親の家の前にあるリンゴの最後の木の枝に白い布を見つけたら、僕は両親の家まで走って行って家に帰るよ。しかし、もし白い布がかけていなかったなら、すぐここから離れてくれるかい。僕は目を閉じたまま離れて、生まれた家をもう二度と見ないようにするから」とヨハネはマルコに言いました。

 ヨハネに言われたようにマルコは車を運転して、リンゴの並木道に着きました。ヨハネは目を閉じたまま、不安と心配に怯(おび)えながらマルコに尋ねます。「お父さんが最後のリンゴの木の枝に白い布をかけていますか? お願いだから、僕に遠慮しないで正直に言って…」と、言うなりマルコはすぐに答えました。「いいえ、最後のリンゴの木の枝に白い布はかけてありません。ですが、このリンゴの並木道のすべての木の枝に数え切れないほど、たくさんの白い布がかけありますよ。さあ、安心して、早く両親のところに帰ってください。きっと両親は君を待っているでしょう」と。

 教皇フランシスコが無原罪の聖マリアの祭日に開く「いつくしみの特別聖年」が私たちにとって赦しを受け、また赦しを豊かに与える機会となるように、私は希望します。慈しみは神の特徴というよりも、神のアイデンティティです。慈しみのない神は存在しません。「神のいつくしみとは抽象的な概念ではありません」(参照:「イエス・キリスト、父の慈しみのみ顔」6章)。ちょうど親が自分の子供を心から愛しているように、神も私たちにご自分の愛を具体的に明かすのです。神の慈しみはすべての時代を超えて、永遠に続くのです。つまり、神の似姿で造られた人は歴史の中に生きている時だけではなく、永遠に御父の慈しみの眼差しの下(もと)に生きる人です。この神秘を教会の教えと聖霊の導きの助けでゆっくり探(さぐ)りましょう。また「神がいつくしみ深いように、わたしたちもいつくしみ深い者となりましょう」(参照:ルカ6,36)。

 ですから「いつくしみの特別聖年」に当たって、今まで人の過ちを赦さない頑固さや、人を拒んで挨拶や仲直りをしない姿勢、人を傷つける言葉、人を無視し避け続ける態度などはやめて心を改めましょう。私たちの心と魂に慈しみの白い布をたくさん飾りましょう。そうすれば2016年は、必ず神の恵みに溢れる平和と喜びの年となるに違いありません。この聖年の間に、私たちの回心が神を驚かせますように。そして、私たちの心からの愛、赦し、理解、希望、信頼と喜びは豊かな泉として湧き出て、周りの人々を潤すように、聖母マリアの助けを願いましょう。

                         主任司祭 グイノ・ジェラール神父
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