今 月 の こ と ば
2014年8月

年寄りの勇太郎


  ある小教区の神父は不安を抱いて、事務員の人に次のように打ち明けました。 「最近、この何週間かの間、ボロボロで汚れた服を着て、毎日、ちょうど十二時に、この教会を訪れている一人の年寄りがいます。 彼は祭壇まで行って、直ぐに帰ります。 その態度が変だと思いますので、暫く彼を監視して貰えませんか。 もしかすると、彼は何かを盗もうとしているのか、あるいは何かを壊そうとしているのかも知れませんので、できれば彼と出会って、詳しく彼に尋ねてください。 お願いします。」

 翌日から一週間に渡って、事務員はこの変な老人の態度と動きを確かめました。
確かに彼は毎日、十二時に教会に入り、祭壇の前に行き、そして一分程経つとお御堂から出て来ます。 ある日、事務員は彼に尋ねました。 「こんにちは。 あなたはこの教会の信者の中で最も忠実な人でしょう。 なぜなら毎日教会にいらっしゃいますから…。 しかしここに来ても直ぐに帰られますが、いったい何をする為に来られるのですか?」と。 「私は祈りに来ます」と老人は答えました。 「えっ、そうですか? あなたの祈りは短すぎるのではないでしょうか?」。 「はい、確かに私は長く祈りません。 毎日、ちょうど十二時にお御堂に入り、イエスに次のように言うだけです。 『こんにちはイエス様! 勇太郎君です』と、そこで他の言葉を加えずに、一分間位待ってから帰ります。 この祈りは短いかも知れませんが、きっとイエス様はこの祈りを聞き入れて下さるでしょう、と私は信じています」と。

 そんなある日、教会を出た途端、あの年寄りは大きなトラックに飛ばされました。  彼は重態の状態で近くの病院に運ばれました。 レントゲン写真には彼の体の骨折した多くの骨が写っていました。 勇太郎お爺さんはずっとベッドに寝かされました。 ご存知のように、入院している患者は、苛立って、不満や不平を言う習慣があります。 確かに医者や看護師たちは「呼んでも、中々来ない」とか「病院の食事は美味しくなくて、量が足りない」とか「早く退院させてください」とか、等々の文句を聞くのは慣れています。 ところがこの年寄りの勇太郎はいつもニコニコしていて、体全体の痛みにも拘らず、一度も彼の口からは文句が出ませんでした。むしろ彼は皆と一緒に励ましの言葉を語り、周りの患者が言いたいことや文句や苦情に耳を傾けて、誰であろうと皆を大切にしていました。

  それを不思議に思って、ある看護師は年寄りに尋ねました。 「あなたはいつも幸せそうですね。 なぜでしょう? 体の様々な傷と骨折のせいで苦しんでいるのに!」と。 彼はすぐに答えました。 「だって、その日、その日、毎日、お見舞に来る人が私の傍に来て、私に幸せをいっぱい与えるのです。」 それを聞いて、驚いた看護師は尋ねました。 「えっえ? そうですか? 今まで、あなたをお見舞いに来た人は誰もいませんし、あなたには家族も親戚の方も、また友達もいないのではないですか? あなたは朝から晩まで、いつも一人で居るでしょ?

 いったい誰が、いつ、あなたを訪れるのですか?」 「毎日、ちょうど十二時に。彼は私のベッドのすぐ傍に来て、微笑みながら私に『こんにちは勇太郎君、イエスです』と言ってから直ぐに帰ります。」と、老人が喜びに溢れて答えました。

 皆さん、この勇太郎お爺さんに倣って、私たちもイエスとの出会いの時を持ち、短くてもその時に対して忠実であるように務めましょう。 「あなたを僕(しもべ)ではなく、友と呼ぶ」(ヨハネ15,15)とイエスは私たちに教えました。 愛をもって、キリストと親しく話し合って、生きる望みやキリストを見て、色々と分かち合いたい希望を育てて、彼の愛する友として、毎日決めた時に、その出会いの素晴らしさを深く味わいましょう。 イエスは必ず会う約束を守ります。 イエスが望むのは、長い祈りではなく、心の愛の飛躍と愛の叫びを待ち望んでおられます。 キリストのために死ぬことは素晴らしいことですが、キリストと共に生きることは遥かにもっと素晴らしいことです。 同時にキリストへの信仰の内に死ぬことは望ましいことですが、キリストに生きることはもっと好ましいことです。 しかしそれが出来るためには、私たちが毎日、忠実に決めた時にイエスと出会うことが必要です。 有名な聖人の体験によると、決めた時に祈る人は神と隣人への愛に対して飛躍的に成長します。

                       主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父
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