今 月 の こ と ば
2014年7月

ヤナギの枝で編んだ籠(かご)
 
 山間の村の小さな木造の家に一人の老人が小学生の孫と一緒に住んでいました。 毎朝起きるとこの老人は聖書の身近な個所を読み、黙想する習慣がありました。 お祖父(じい)さんがとても愛している孫は、彼をよく見てその行いを真似る事が大好きでした。 ある日この孫は、お祖父さんのように聖書を読もうと決めました。 一週間経って、孫はお祖父さんに次のように打ち明けました。 「祖父さん、あなたのように聖書を読もうとしましたが、僕(ぼく)は書いてあることが殆ど解かりませんし、少し理解出来ても暫く経つとそれを忘れてしまいます。 ですから、もう聖書を読むことは止めようと思います。 何故なら聖書を読んでも何の利益もないと解かりましたから。」

 すると、お祖父さんは直ぐに、石炭の入った大きなヤナギの枝で編んだ籠(かご)を空(から)にして、慈しみの眼差しを注ぎながら孫の手にそれを渡しました。 「さあ、今から家の近くにある川まで行って、この籠に出来るだけ水をいっぱい汲んで、持って帰ってきなさい」と老人が言いました。 孫はお祖父さんの言う通りにしましたが、川の水を入れる度に、その水は籠から直ぐ出てしまいました。 孫がお祖父さんにこのことを説明すると、お祖父さんは孫に「あなたは走るのが遅すぎるのです。 もっと速く走ってご覧なさい。」と答えました。 孫は何回も何回も努力しました。 しかし、いくら速く走っても籠はいつも空っぽでした。 一生懸命に籠に水を汲んで息が切れた孫は「お祖父さん、お祖父さんに頼まれたことは僕には無理です。 この籠は全く役に立ちません。 僕にバケツをください」と願いました。

 「いいえ、バケツを使ってはいけません。 私は君がこの籠に出来るだけたくさんの水を入れて欲しいのです。 さあ、諦めずにもう一度川へ行きなさい。 失敗は必ず成功へのチャンスを与えますから」と老人は答えました。 孫は言われた通りにしましたが、やはりお祖父さんの家まで戻ると籠はまた空っぽでした。 「見て下さい。 お祖父さん。 どうやっても無理です。 こんなに速く走って帰って来たのに!」と孫は叫びました。 「君自身こそが、よく見なさい」と老人は言い返しました。 「さあ、この籠をよく見てご覧なさい。 前に入っていた石炭のせいで籠は真っ黒でとても汚いでした。 でも今は、こんなに綺麗になっています」と老人が言いました。 孫は自分の努力で籠が綺麗になったのを見てびっくりしました。 そこで老人は孫に説明しました。
 
  「聖書を読む時にも同じことが起こっています。 君が理解してもしなくても、内容を覚えていてもいなくても、聖書を読み、黙想する度に君が知らない間に、君の魂がとても美しくなります。 確かなことは、必ず変わるのは君の魂です」と老人は孫に説明しました。 その日から二人は心を合わせて一緒に毎朝聖書を読むことにしました。 そして孫が理解出来ないところは、お祖父さんが優しく説明してあげました。

 人間の古代の文明や歴史を通して、神は聖書の中で私たちの心に語ります。 しかし、ヘブライ語とギリシャ語で書かれた聖書は、日本語になると決して理解しやすい書物ではありません。 古代の人々の考えや文化、世界観や宇宙万物に対する理解などは、現代人である私たちの考えや文化、物事への理解と非常に異なっています。 そういう理由で、人は聖書を読むことを簡単に諦めます。 しかし聖書は神の言葉です。 優しい父として神は、聖書を通してご自分の心を開き、打ち明けながら私たちの心を開きたいのです。

 それはその中に、ご自分の限りない愛と聖霊の叡智(えいち)を豊かに注ぐためです。 あなたの永遠の幸せを望まれる神に、あなたの心を閉じてはいけません。 むしろ、神の言葉と教えに親しむために忍耐をもって聖書を読むことによって、あなたにとって聖書が掛け替えの無い大切な書物となりますように。 この物語の石炭の籠のように、あなたの全てが神のみ言葉によって清められ、変容させられ、聖とされますように。


                       主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父
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