今 月 の こ と ば
2013年8月
安全第一の社会を信じる・・・・・。

  先日、フランスのニュースレターにこの様なことが書かれていました。

  「1950〜60年代に生まれたあなたは、どのようにして生き残ることが出来たのか? 今、あの頃を思い出すと、よく今まで生きていたと不思議に思いませんか? 車には、安全ベルトやエアーバッグはありませんでした。

  しかし、危険を意識することなく後部座席でガヤガヤと笑って遊んでいたのではないでしょうか? ヘルメットをせずに、バイクや自転車にも乗っていました。 殺菌された清潔なペットボトルに入ったミネラルウォーターではなく、水まきホースや泉から直接に水を飲んでいました。 夜までに家に戻るという条件なら、遅くまで外で遊び続けても許されました。 携帯電話がなかったので親は子供がどこに居るのか、また何をしているのか、知るすべがありませんでした。 現在ではとても信じられないことです。 喧嘩をしてすり傷だらけになっても、責任を他人になすり付けたりせず、自分自身が悪いということになっていました。 甘いジャムやバターがたっぷりの薄切りのパンを、いくらかき込んでも肥満の心配で誰も悩んでいませんでした。 いつも外で運動して、細菌が移るのを恐れることなどなく、同じオレンジジュースのボトルを2〜3人で回し飲みをしていました。 あの頃はプレイステーションや任天堂64などのビデオゲームやアイパッドやコンピューターのチャットなどありませんでした。 しかし、本当の友達が数人いました。 予告しなくても友達の家に飛び込んで、彼を遊びに引っ張り出しても大丈夫でした。 外!それは本当に危険に満ちた外でした…しかも監視なしで! 隣の空き地で仲間が集まってサッカーの試合をする時は、自分が選抜されなかったからといって、別に心の深い傷があった訳ではありません。 偶々、学校で自分が留年となった時でも、カウンセリングに連れて行かれなくても事が済んでいました。 あの頃、私たちには自由があり、失敗も成功もあり、宿題と課題があった…が、これらのすべてを当然と受け止め、それらを抱えながら生活していました。 今考えてみればよく生き残れた、よく成長できたと思います! 私たちのことは、今の世代からすると、とんでもない退屈な人生を送っていたと思われるでしょう。 もしかするとそうであるかも知れませんが、凄く幸せだったと思いません? 」

   これを読んで、フランス、ヨーロッパで日本並みの衛生の念が深まり、また「危ない!」「やめなさい!」と我が子の安全を神経質になって言う過保護のお母さんは、日本だけでなく他の国にも増えたという風に思いました。 世界中に広まっている、財産と生命のすべてが保証されている保険万能社会にあって、安全というものの価値は最大の善とされる傾向があります。 安全の保証政策や実施は、ある意味で大きな進歩と言い得ますが、あまりにも危険を恐れ、安全に拘(こだわ)るならば、人々は雁字搦(がんじがら)めになって身動きがとれなくなってしまう恐れがあります。 危ないからといって、外の遊びが許されていない子供って、なんて気の毒だとも思います。 チャレンジが許されず、様々な発達の可能性が閉ざされてしまう結果になるから…そして安全・安全と言って、財産や生命が保証されても、魂の命は必ずしも保証されているとは言えません。

  リスクに身をさらさずに、人間として充実して生きるということが有り得(う)るでしょうか。 いつも身の安全を気にして、リスクの可能性を完全に排除しようとするならば、文化や経済をはじめ、人間の活動には発展性がなくなります。 起業精神か冒険精神が生きていなければ、社会は停滞してしまいます。 信仰もそうではないでしょうか? 「信仰は賭けだ」とパスカルが言いました。 目に見えない神の手にすべてを委ね、自分自身を賭けるのは確かに危険な行為です。 目に見える世界の常識に安住した方が無難かも知れません。 しかし、この賭けを避け、安全地帯ばかりに留まろうとするならば、自分自身の命を失ってしまうかも知れません。 「自分の命を守ろうとする人は、それを失い、それを失う人は、かえって保つであろう」(ル17,33)。 このイエスの言葉には、福音の最も考えさせられるパラドックス(逆説)があるような気がします。

                          主任司祭 グイノ・ジェラール神父
「今月のことば」目次へ
     HOMEへ