今 月 の こ と ば
2013年5月
私たちはどんなキリスト者でしょうか?

   「何をしているのですか?」と聞かれた三人の石切り職人のストーリーをご存知でしょうか? 最初の人は、質問した人を見ずに、顔も上げずに、鏨(たがね)をつかんで石を砕きながら「見ている通り僕は石を粉々にしているのさ!」と答えました。 次の職人は仕事を止めて、頭を挙げてから質問した人をじっと見つめました。 そして、ため息をつきながら「僕は、生活費を稼(かせ)ぐために頼まれた仕事をしているだけです!」と返事しました。 三番目の職人は立ち上がって、質問した人の手を強く握って、溢れる喜びに顔を輝かせながら「僕は、どんな世紀にも負けない美しいカテドラル(大聖堂)を作っているのです」と答え、熱心に仕事に戻りました。  

   もし誰かが私たちに「どうしてキリスト者になりましたか?」と質問するなら、どのように答えるでしょうか? きっと数え切れない多くの信者は「両親の望みで幼い時から洗礼を受けました」とか「キリスト教は人間を尊敬し、谷間にある人や貧しい人を大切にするから」とか「ある人の勧めでイエス・キリストを信じるようになりましたが、今はまあまあだね!」とか答えるでしょう。 実は、こんな風に答える信者は信じてきたことを大切にし、それで満足しています。 しかし彼らは多分個人的にキリストと出会っていないし、自分の信仰を照らし、強め、証しするために、神の言葉を自分の日常生活の土台にしていないでしょう。 この種の信者が、第一の石切り職人によく似ています。  

   他の大勢の信者は、二番目の石切り職人のように、教会が頼む事と自分の良心に従うことしか行いません。 教会の掃除、ミサの朗読、様々なグループの活動に参加します。 この種の信者がキリスト者になった理由は「天国へ行きたい、信仰を養いたい、キリストをもっと知りたい、人の役に立ちたい」などです。 彼らは正直な人です。 しかし、習慣的で伝統的な信者ですので、教会へ行く事を楽しみとして味わっています。 しかし自己満足で別に自分たちの信仰の現し方を変えるつもりはありません。 この種の信者たちは「今のまま、静かに、共同体に不和を持ち込まずに、皆と一緒に仲良くして生きていきたい!」と深く望んでいます。

   残っている信者は生憎、数が少ないですが、第三の石切り職人のように大きな希望を育てています。 自分たちの信仰を養い、強め、育てながら、彼らは神の国を作りたい人です。 「何とかして、キリストと一致して、聖人になりたい、神の為に命を捧げたい、イエスのように深く愛したい、主の救いをたくさんの人々に伝えたい、教会を生き生きさせたい」ということを目指しています。 この種の信者の顔は、信仰の喜びに輝いています。 後ろを見ずに、また過去の出来事を忘れて、彼らは明るい未来をかたち作り、良い結果を待ち望んでいます。 実に彼らは自分たちの為に生きるのではなく、キリストのために、キリストによって生きたい人です。 このような揺るぎない希望と明るい信仰を持つ人の証しは、キリストの傍に人々を集め、そして、どのような世紀にも負けない素晴らしい世界になります。  

   さて、聖体拝領をする度に、私たちは聖霊の交わりの中で、確かに主キリストと共に一つの体、一つの心、一つの霊になります。 言い換えれば信仰の兄弟姉妹のために、私たちはキリストの現れです。 そうであるはずなのに、どうしてミサが終わった途端に私たちは自分のもとの姿に再び戻るのでしょうか? そう考えると「一体、どうして私たちはキリスト者になったのでしょう?」 神の秘跡の恵みを無駄にしていないでしょうか? 正直にこの問題について深く反省しましょう! 

                           主任司祭 グイノ・ジェラール神父
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