今 月 の こ と ば
2013年2月
恐れから畏れへ

  恐れはいつも人に生き残る力と工夫を与えます。 例えば糖尿病にかかっている人はその病気が悪化するのを恐れて、とても厳しい生き方の規則や食事に対する節制を守ります。 運転免許を失う事がないように、運転手は交通違反と警察を恐れています。 とても役に立つこの恐れは、人に知恵や慎重さや賢明さを豊かに与えます。 確かに恐れは危険から人を守り、人の命を尊長し、従順と謙遜を教えます。 このように人は知らないうちに、“恐れ”から“畏れ敬う”状態に移される可能性があります。

  聖ベネディクトによれば「神への愛は畏れを追い出します。」(戒津7章67節)。 しかしこの世では愛と尊敬の念を捨て、神も警察も法律も全く恐れない人々がいます。 彼らは自分の気持ちに従って無頓着で不信心の人となり、愚かな生活を送る人になります。 私たちは神と隣人への愛を実現しようとするので、聖ベネディクトの勧めに従います。 聖ベネディクトの勧める謙遜の道は、愛する事を妨げる恐れや心配や苦悶を簡単に追い払う解放の道です。

  聖書によれば「神を畏れることは知恵の初め」(箴言9,10)です。しかし普通、祈る時に神の前で自分の弱さと犯した罪のせいで、人は自分が有罪であることを感じます。 自分が神の愛に相応しくないと認める時、 残念な事に人は神の現存を恐れて、神は厳しい審判者に変化します。 と言うのも、恐れは愛と信頼を奪いますから。 しかし、自分の惨めさを見ずに神の慈しみについて考えるなら、人は裁きを恐れずに神の憐れみに依り頼む知恵を受けます。 この知識から神への畏れが生まれます。 「憐れみは裁きに打ち勝ちます」(ヤコブ2,13)。 やはり私たちがいくら努力しても、またそれを強く望んでも、神を心から愛していないことを正直に認めましょう。 この知識は、苦しみの中に謙遜の道を開き、私たちは神に向かって自分の無力さと悲嘆を叫ぶことが出来ます。

  聖ベネディクトにとって、愛の初めは苦悩の叫びです。 「主よ、助けてください」と。 なぜなら、この叫びのお陰で、人は聖霊によって神の内に引き寄せられ、キリストの愛の力がその人を包み、父なる神はご自分の慈しみを現すようになります。 もし神を畏れる人が、以前に自分の空しさと直面して、神の現存を「避けられない咎めとして、自分を押しつぶし、とても圧迫するもの」として感じたことがあったなら、最後にはその人は神の現存を「平和と憩いの場」として体験出来るでしょう。 苦悩の叫びを上げることによって、その人は謙遜の飛躍を受け、恐れから畏れへ移ることが出来、その結果、人は安らかに神への道を歩むようになります。

  そして神を畏れ敬う人は、知らないうちに神の愛に達し、神に生きるようになります。 彼は、以前は恐怖から従順に行ったすべての事を、いかなる苦労もせず、あたかもそれが自然になされるかのように習慣として守り始めます。 即ち、既に地獄に対する恐怖からではなく、キリストに対する愛、良い習慣、そして徳の実践がもたらす喜びの内に、それらを守ることになります。 結局「その人の命はキリストと共に、神の内に隠されています」(コロサイ3,3)。

                              主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父
「今月のことば」目次へ
     HOMEへ