今 月 の こ と ば
2012年12月
信じる理由があるでしょうか?

 古代文化の神話によると、自分たちの世話をさせるために 神々は人間を奴隷として造りました。 その神々が自分たちの幸せのためだけに人間を利用し、彼らの運命を支配し、おもちゃのように人間を見下していました。 ですから、神々に逆らう人間は永遠に続く恐ろしい罰を受けます。 また、この神々は人間の全ての欠点を持って憎み合い、戦い合い、殺し合いまでしました。 人間は自由になる為に神々と戦って、その支配を奪い取った後、神々の存在を忘れてしまい、 やがて人間自身が神々のようになってしまい、神々なしに生きることを学びました。

  しかし神々なしに人は生きることが出来るでしょうか? 命、死、災い、疫病や宇宙万物の解決の出来ない問題に直面して、人は直ぐにそのことを神のせいにするか、或いは神の存在を完全に否定するかのどちらです。 確かに、神の存在の有無を決める前に、人は何よりも先ず自分の人生の意味を理解しなければなりません。 「人間がどこから来たのか? どこへ行くのか? どうして人間は苦しむのか、また死ぬのか? など」 大抵の人は宗教の内に満足する答えを見つけます。 しかし、そこには神の存在を信じさせる証拠は全くありません。

  しかし、数え切れない小さなしるしが神の方向を指し示しています。 これらのしるしを理解すればするほど、人が信仰に入るために大きな助けとなります。 キリストと共に生きる信仰は、神と人間の一致を宣言するので、神の存在と人間の命に重大な意味を与えます。 自分の人生の目的を探し求める人は、必ず神の存在についてその答えを見つけるのです。 人は自分のために生きるのではなく、神のために、神の内に、神と共に生きるのです。 人生の謎と宇宙万物の神秘を解説するために キリストにおける信仰は一つの安全な道になっています。 全ての被造物と世界の歴史の由来や目的を信仰者は神の内にあると教えます。 信仰は強制的なものではありません。 しかし信仰は 論理的でないもの、常識的でないもの、意味のないものに対する強い城壁です。

 信じるためには自由が必要です。 信仰は神の賜物です。 人はそれを奪うことが出来ませんし、また神は決して強制的にその賜物を人に与えません。 信仰は人の選びの結果であり、神への信頼の内だけに 人に与えられています。神に造られた人間は 完全に自由です。 神に向かって人は「あなたを信じない!」「あなたを要らない!」と言うことが言えるでしょう。 特に無神論者の存在が、人は神なしに生きることが出来る、と言う事実を私たちに教えています。 信仰に生きるために、人はそれを自由に選び、決断をしなければなりません。 そしてこの選びと決断を日常生活の出来事を通して、 毎日新たにする必要があります。 私たちキリスト者は、互いに自分たちの信仰を分かち合って、信者でない人々や他の宗教の人々と対話しながら、神の存在の証人となります。

 神を完全に知ることは出来ませんが、毎日自分の信仰を養うことによって 人は神の神秘に生きることが出来ます。 ここでも自由な選びと決意が必要です。神への愛の行いによって、人は日常生活の様々な問題に対して答えを簡単に見つけるのです。 キリストにおける信仰は、人間を完成させる道を開き、人を神の似姿に形づくり、人々を美しい人生、幸せな人生、明るい人生へと変化させます。

  人は神なしでも生きることは出来ます。 しかし人々のつながりを無視して、人々への信頼の絆なしでは決して生きることは出来ません。 信仰は神と人々の間に強い絆を与えるのです。 信仰によって人は神の前に自由な人間として立つことが出来、そして全ての人を自分の兄弟姉妹として受け入れます。 さらに、信じる人は宇宙万物とすべての被造物と共に神を賛美し、礼拝します。 なぜなら全世界は神の存在を示し、神の栄光を語っているからです。

  最後にこのことを忘れないようにしましょう。 いくら人が一生懸命に神を探し求めても、神はもっと昔から、ずっと私たちを探し求め、呼びかけています。 「アダム、どこにいるのか?」「カイン、お前の弟アベルはどこにいるのか?」(創世記3,9、4,9)と。

                            主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父
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