今 月 の こ と ば
2012年11月
神は願いを叶えるか、無視するか?

  「願いなさい、そうすれば与えられる」(マタイ7,7)とイエスは勧め、また「天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない」(マタイ7,11)とイエスは断言します。 しかし、自分のため、あるいは、他の人のために一生懸命に良いものを願って祈ったにもかかわらず、神が その祈りを叶えなかったことを 私たちは度々体験しています。 その時、自分の願いが具体的な効果を引き寄せなかった 悔しさと悲しさを感じるよりも 他人の苦しみの前で自分が全く無力であるという事実を 耐え忍ぶことが難しいです。 とても悲痛な状態に対する神のうわべだけの無関心は、あらゆる時代の人の疑問や怒りを生み出します。

  私たちにとって、神の全能と弱さは理解できない神秘です。 この神秘の前で、人は神に対して揺るぎない信頼を伴う疑いを持たない忠実さを示さなければなりません。 なぜなら、神は私たちの味方であり、私たちの苦しみ、悩み、混乱を全てご自分のものとしますから。 これこそ十字架の神秘の明白なメッセージです。 私たちの祈りが叶えられなくても、私たちが示す友情と共感は苦しんでいる人にとって非常に貴重な助けと役に立つ慰めです。

  ある人々の説明によれば、私たちが望んだ通り、神はその祈りを叶えなかったとしても、実際には神は違った風に 願ったことを叶えているそうです。 とにかく、無駄な祈りや効果をもたらさない祈りは全くありません。 自分の期待に反して、思いがけない時にきっと私たちをびっくりさせるために、神は信頼の内に捧げられた昔の祈りを叶えます。 事実、私たちが祈りを口にする前に、神は私たちが願うつもりのことを 摂理を通して叶えます。 このやり方によって、神はご自分の自由と慈しみを現すのです。 「神は私たちが必要とする物をご存じですから」(マタイ6,32)。 願いが叶えられても、叶えられなくても、この状態を通して神は 私たちに新しい出発の場所とスタートラインを準備していることをよく見分ることが必要です。 これこそ信仰のチャレンジです。お陰で私たちは、悔しさと疑いから深い信仰へと移ることが出来ます。

  試練と出会う時に幸せを信じ続ける事は難しいです。 不安と言いようのない恐怖が必ず私たちを襲ってきます。 神は「あなたを救うためにわたしはあなたと共にいる」(エレミヤ17,19)と断言します。 また、聖書は、「恐れることはない」という励ましの言葉を366回繰り返します。つまり、一年間に渡って、その日その日のために神は不安と怖れから私たちを保護する約束を下さいます。 世の終わりまで私たちと共におられる神は、救いと幸せを与えようとします。 しかし、私たちは神だけを支えとするか、それとも、自分の祈りや願ったものや期待により頼んでいるか、どちらであるかが問題です。 叶えられない理由は、ここにあるのではないでしょうか?

  預言者エレミヤは神の言葉を語ることによって、私たちに希望の大きな息吹を吹き込みました。 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29,11)。 しかし希望はいつも戦いへの出発です。 願ったことが叶えられても、叶えられなくても。なぜなら、私たちは一生懸命に願ったものと自分の心を結びつけないことに気をつけなければなりません。 むしろ、惜しむことなく神のみ旨を行うことが肝心です。 私たちは「まず、神の国とその正義を求めましょう」(マタイ6,33)。 どんなに、いつか、残る物事がすべて加えて与えられていると分かっていても。 「主よ、あなたに希望をおいた私はいつまでも辱められることがないと知っています」(テ・デウム)。

                             主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父
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