今 月 の こ と ば
2012年9月
年齢はとても役に立ちます
 
人生は自分の人格を確立する相次ぐ瞬間で形作られています。 自分の幼い時から青春時代まで両親が全責任を持ち、大切な物事を決定します。その時は、「若い頃の気楽さ」と呼ばれています。 大人になってから、自分が自由にしたい事を選び、その結果の責任を負います。 壮年の時代は自分のエネルギーと全力を注ぐ最も豊かな時です。 その時は、「活動的な生活の時」といわれます。 しかし現役生活から退いて、人は「退職の年齢」になって、「老年」を体験し始めます。

  皆がその時を同じように生きて行くことが出来ません。 夫婦の生活をし続ける人がいれば、一人だけで毎日の苦労と戦う人もいます。 子供や孫に囲まれている人がいれば、孤独の生活をし続ける人もいます。 また、年を取るにつれて、体の状態が崩れるし、自分が弱くなったり、病気と共に疑いや恐れが自分を襲ったりします。残念ですが 鬱病やストレスや我慢する忍耐が弱くなるなどは 大勢の年寄りの特徴です。 その状態を耐え忍ぶ人は、老年時代が全く役にたたないと考えるようになります。

  しかし、老年時代はとても役にたちます。 退職した人は時間をたっぷり持つから、自分の人生の流れの大切な日々や幸せと不幸の出来事を思い出すことができます。 距離をおいて見ることによって、昔の出来事が新しい風味を持ち、従って人はもう一度幸せの時を味わいます。 当たり前の事ですが、我々各人や家族が固有の歴史を持っています。 年寄りの方はそれを子供と孫たちに正しく伝え知らせる責任があります。 と言うのは、子供たちは自分たちが見て、ずっと使っている物事が前から存在していると思い込んでいます。 自分の過去についての記憶、また昔と現在の生きかたと考え方の違い、更に、人間に対する尊敬と同時に自然、建物、物に対する尊重を自分の子供や孫たちに教えたり、理解させたりする事も必要です。

  職場にいた時や、あるいは家の家事に捕らわれていた時に、人は祈る時間と霊的な読書をする時間を見つけることが難しかったに違いありません。 しかし、退職してから人は時間が充分にあります。 ですから、その時は生涯に渡って頂いたすべての恵みの為に 神に感謝と賛美を捧げる時になっているのではないでしょうか? また、全く祈れない人々、あるいは 祈りたくない人々に代わって 高齢者は祈ることで 愛の行いを実現します。 そうすることで、自分に残っている各瞬間を輝いている瞬間へと変化させます。その上、自分の死と出会う良い準備をします。高齢者が、落ち着いてゆっくりと、主の前で死の準備をすることは望ましいです。

  聖書の中で励みを与える言葉を 高齢者は見つけるでしょう。「わたしは、年齢にふさわしい者であることを示し、若者に高貴な模範を残します。」(2マカバイ記 6,27)「白髪の老人が判断力を、長老たちが助言をする知識を有することは何と好ましい事か。年老いた者の知恵、名の知られた者の理解と助言は、何と好ましい事か。豊かな経験は年老いた者の冠、主を畏れることこそ、彼らの誇りです。」(シラ書25,4-6) 「神の庭に植えられた人は 白髪になってもなお実を結び、命にあふれ、いきいきとしています。」(詩篇 92,15)

  自分の年齢に新しい値打ちを与える人は 命について積極的な眼差しを受けるのです。 このような長老は自分のなかに閉じこもることはしません。楽天的な年寄りは、他人との出会いを大切にして、小さなことによっても役に立つように すべての可能性を捜し求める人です。 もし、真心から人の役にたちたいと望むなら、その人は、必ず自分が役に立つ者であることを感じるでしょう! 高齢者にとって生き続けるには努力が必要です。 そしてもう自分のためにしない事を、他の人のために単純な心で行うのは望ましい事です。 ですから、年齢を邪魔な試練の時として見ることなく、むしろ、神に委ねられた貴重で、役に立つプレゼントとして見ましょう。

                          主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父
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