今 月 の こ と ば
2012年4月
幸せの扉 

   「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7,13−14) つまり、幸せを手に入れるには謙遜の態度が不可欠だとイエスは教えています。

   「幸せを得るために例え話の門は二つの違った方法を差し出します。しかし、人は門の開け方を知っているでしょうか? キリスト者である私達は、神の親しい現存の内に永遠の幸せがあるとよく理解しています。ですから、神と出会うために何でもします。それにもかかわらず、神と私たちの間に丁度例え話の門のように、妨げとなるわけ隔てるものがあるのも強く感じています。私たちの永遠の幸せが神の内にのみあること、そして神の内に留まる条件でその幸せに預かる事が私たちにはよく分かります。ですから、神の近くにいるために、出来るだけこの妨げとなっている扉を叩き、また開けにくい扉を力強く押し付けて無理にあけようとします。残念ですが、私たちの努力は中々開かないこの扉にたいして、空しく力を注ぐだけです。この大切なことを忘れるなら、いつまでたっても、神が扉を開けようとしているのに。私たちが閉じようと動力するわけです。

   不思議な事に、この扉は更に強く押し付ければつけるほど、また我慢強く叩けばたたくほど、抵抗します。何故でしょう? 答えは非常に簡単です。この扉は自分の考えている側ではなく、反対側から開けられるからです。この扉を開けるには押し付けるのではなく、引き寄せるのが必要です。更に、私たちはもう一つの大切な事実を忘れています。即ち、いくら神と出会うという私たちの望みが美しいものであろうとも、私たちと出会いたい神ご自身ののぞみこそ第一だからです。

   幸せと言うのは、神が自由に私たちに追いつき、近くになることを謙遜に承諾する事です。奇妙なことに、また逆説的なことに、神が私たちに提案する幸せを受けるために、私たちはその幸せに対して、如何なる関係もないこと、どうにも出来ない事を認めざるを得ません。使徒パウロはそれを上手に表現しました。「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」(エフェソ2,8−9)る。

   やはり、神に通じる扉と道は謙遜の態度であります。私達の永遠の幸せを考えたのは神ご自身です。ですから、私たちが想像さえしなかったこの幸せにぴったり合うように 私たちの努力や功績や決定はこの唯一の目的を目指さなければなりません。幸せの扉を開ける方は神ご自身です。この幸せの扉を開いて神は、思い掛けない時に必ず私たちの傍に来て、ご自分のあふれる愛で私たちの心と魂を満たすでしょう。ですからゆるぎない希望と、目覚めている心で、謙遜に神の訪れを待ち望み続けましょう。

   神は幸せの道を共に歩きますから、彼が私たちの人生をあらゆる面で導くように切に願うことは肝心です。そして、いつもイエスの言葉をよく理解して、思い巡らしましょう。「私は門である。私を通して入る者は救われる。その人は門を出入りして幸せを見つける。」(ヨハネ10,9) 即ち、幸せの扉を一度通ってから 人はもう出られないということは決してありません。神の親しさを体験する人は、全ての天使と聖人と同様に、その幸せの証人となって、他の人々にこの幸せの道を案内するために、絶えず、神の国に入ったり、出たりするからです。キリストにおける信仰が与える幸せの恵みは、何という素晴しいたまものでしょう!

                          主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父
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