今 月 の こ と ば
2012年3月
信じるとはどういう意味でしょうか?
  「信じなさい、救われるから」とか 「見ないで信じる人は幸い」とか、キリストの言葉の意味を変えて、人が言いがちである。(マルコ16,16)(ヨハネ20,29)勿論信仰は神の救いと永遠の幸せとに関係がある。しかし信仰は、先ず、第一に、神の無償の賜物である。 例えば、司祭が洗礼を授ける前に洗礼志願者に次のように質問する。「あなたは教会に何を求めますか?」洗礼志願者は「信仰を求めます」と答える。 いくら洗礼志願者が長年キリスト教をよく勉強したとしても、彼の知識は信仰ではない。 信仰は 人を神と一致させ、神を知り、愛し、敬う力と忠実さを与える。

  信仰は盲目的な信頼を要求すると同時に人の知恵と判断を土台とする。 しかし信仰は 知能と理性の活動の結果ではない。 誰も信仰を教えることが出来ない、しかし信仰は神の現存と存在に対してゆるぎない確信を与える。 信じる人は 日常生活の出来事を通して 神の実在を体験する。 その体験も個人的なものであり、それについて証し出来るが、同じ体験を他の人にさせる事が到底無理である。 と言うのは、同じ信仰を持っていても、人々の体験と証しは全く違っており、それにもかかわらず、不思議に一致している。 信仰によって人が神について体験した同じことを、他の人に体験をさせることは不可能である。 しかしこれについてその人はいつでも証しする事ができる。
 
  信仰は神の愛と結ばれているので、私たちが愛について説明できないように、信仰についても説明できない。 私たちは愛に生き、信仰に生きる。 この愛と信仰は永遠の幸せを与え、罪とあらゆる種類の悪から私達を救う。 愛も、信仰も証拠を要求しない、ただ 見ずに 「真実を喜び、忍耐強く、全てを信じ、すべてを望み、全てを耐え忍ぶ」(1コリント13,6−7)のである。

  人は「私の信仰が弱い」とか「信仰が足りない」とか言いがちである。 神への体験が足りなかったり、証しするのを恐れたり、自分がキリスト者であることをいう勇気がたりないから 人はそんな言い方をする。 しかし神の賜物として与えられた教会の信仰は完全であり、欠けているところが全くない。 教会の信仰は 神をありのままに見ている全ての聖人の信仰であり、聖霊は絶えずその信仰を強め、豊かにし、満たす。

  神と親密な関係を結べば結ぶ程 恵みとして授かった信仰が私たちに確信と希望を与える。 そして、私たちは 見ないで信じた事を いつか、全ての天使と聖人と共に はっきりと仰ぎ見ることが出来る。 私たちは「キリストを見たことがないのに信じ、今、見ていなくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴しい喜びに満ち溢れている。 それは、私たちが信仰の実りとして魂の救いを受けているからである。」(1ペトロ1,8−9)

  今年10月から「信仰の年」が始まるので、この恵みの時を上手に利用しながら、共同体的、家族的、個人的にも 無償で洗礼の時に受けた「信仰の恵み」の意味について ゆっくり考える必要があると私は思う。

                              主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父
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