今 月 の こ と ば
2012年2月
山羊を右側に置こう!(司祭のユーモア) 
  ある日、イエスは群衆に話していた。「審判の日に神は羊と山羊を分け、羊を右に、山羊を左に置くでしょう。」すると群衆のうしろから一人の男が声をあげた。
「とんでもない。ぜんぜん違うよ。イエスよ、お前は大工で、お前の友は 漁師だが、おれは若い時から羊と山羊をずっと育てている、それでおまえに尋ねたい。どうして羊が良くて、山羊が悪いのか? 真理を語る聖書によれば、創造主は全てのものを「よし」とされた。そこで、言っておきたい…神は山羊を特別に「良いもの」として創られた。なぜかと言うと山羊は非常に純粋な動物で、そうして、神がモーゼに教えたように 山羊だけが人間の罪を担って砂漠のはるか遠くに連れ去ってくれるのだ。  また、神にいけにえとして捧げられた山羊の血だけが人々の罪の許しを得させるのだ。このようにアブラハムのひとり子イサクの命は、木の茂みに角をとらわれた一匹の山羊のお陰で救われた。

 山羊は人々に最初に飼いならされた家畜だ。アブラハムの時代に、山羊を飼う仕事は畑仕事より大切だった。今でも、山羊は家畜として、至るところで一番育てやすい動物だ。山羊は、けわしい崖にものぼれるし、羊や他の動物が飢えて死んでしまう荒れた土地でも山羊はかえって元気に生き残る。山羊とは家畜の中で一番丈夫な口と四つの胃袋を持つ動物なので、かたい草、雑草、いらくさ、あざみ、いばら、かんぼく、きいちごなど、平気で何でも食べることができる。

 山羊は人々に肉とミルクを与えてくれ、更にこの山羊のミルクは自然のものでたったひとつ、質が悪くならないものだ。山羊の毛は服になるし、山羊の角は角笛やトランペットに使われる。エルサレムの神殿の典礼の為にも、非常に役に立つ楽器のひとつになっている。山羊の皮はレザーやテント、太鼓の皮、食物や水やワイン入れの皮袋になる。山羊の子供は、他の動物とちがって、生まれた時から目を開けていて、生まれてすぐに立って歩くことができる。

  農夫や羊飼いたちは皆、誰でも、山羊は清潔な動物だと知っている。泥とふんだらけの牛や羊や豚やにわとりや犬などとは全く違った動物だ。いくら人が山羊の出す臭いが嫌いでも、他の山羊はそんなことは平気で気にしない。山羊はお互いに助け合って生きている。たとえば、山羊の群れがエサを食べる時、少なくとも、一頭は敵に備えて見張りをする。あるいは、群れから離れようとする一匹の山羊があれば、すぐ群れの山羊は皆、声を張り上げ呼びかける。また山羊は人間の友情にこたえて、好きな人には、ミルクを与えるけれど見知らぬ人には決して与えない。

  さて、イエスよ、お前はある人々をいやし、また他の人々の目を治したと聞いている。けれど、お前が人々の近くにいない時、一体誰がそれが出来るのか? 山羊ではないか? ある人の息子が自分の腕にやけどをした時、山羊の骨髄(こつずい)がそれを完全に治した。又、山羊のミルクは 確かに、ある人の娘のへんとうせんのはれを治した。おれのおふくろが不眠症になった時、彼女の目の下をメス山羊の胆のうでこすって治してやった。また、おれのぎりの父の目が悪くなった時、柔らかな山羊のチーズを目に当てると治った。

  イエスよ、お前は 多くのことを知っており、おれはお前の言うことを聞くことが好きで、大部分に賛成だ。だが、山羊のことでお前は大変間違っている。経験豊かな羊飼いであるおれの言うことに耳を傾けて、よく聞きなさい。山羊は、山羊として神によって創られ、山羊らしくあるように創られ、山羊として、するべきことをするように創られた。
 おれはイエスよ、お前とここにいる全ての人にはっきり言っておく、おれにとって山羊は全て、一匹残らず、神の右側にいるべきだ、そして、全ての人も右側に置かれる。多分そうだと思う」と。

                              主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父
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