今 月 の こ と ば
2011年12月
スペアタイヤであるキリスト者
  
車のタイヤがパンクした時に人はすぐに置いた場所からスペアタイヤを取り出して、パンクしたタイヤの代わりにそれを使います。思い掛けない時にパンクして、もし車の中にこの大切なスペアタイヤがなければ修理してくれる自動車が来るまで、車はもう動けません。確かに、車のタイヤが問題を起さない限り、誰もスペアタイヤの事を考えません。ある意味で、スペアタイヤが目立たないから、役に立つようになるまで謙遜で、忍耐強く自分の時を待っています。また、利用されているスペアタイヤが残っている丈夫な三輪のタイヤと完全に一致しているので、知らない人に聞いても、四輪の内にどれがスペアタイヤであるか その人は中々答えられません。

 キリスト者は 自分の家族をはじめ、全ての人のためにスペアタイヤのようになる使命を受けています。例えば、自分の家族のメンバーが教会にもう足を運びたくないと分かったキリスト者は、ただ自分だけが信仰を忠実に生きようとするなら、このメンバーに代わって、彼らの分を背負って教会へ行きます。そこで、キリスト者は出席したくない自分の家族の上にも神の祝福を願い、神のいつくしみに皆を委ねます。また、人が自分に打明けた問題や悩みを大事に持って、その人の名によって、それらを自分の問題と悩みとして神のもとに持って行き助けを切に願います。ミサという感謝の祭儀の秘跡を通して、イエスと一つの心、一つの体となるキリスト者はイエスと共に、全ての人の救いのために、神に喜ばれる聖なる生ける供え物として自分自身を捧げます。(ローマ12,1)

  人の信仰がタイヤのようにパンクしたなら キリスト者はすぐスペアタイヤのようになって、謙遜に、目立たない内に、人を助けるという尊い使命を果たさなければなりません。丁度、主イエスが全ての人の救いのために自分自身を捧げたように、キリスト者も全ての人の救いを願って、自分自身を神に捧げます。つまり、それは人を「死から復活」へ導くためです。疑いもなく、この役割を果たす事によってキリスト者は「これを私の記念として行ないなさい」と言われたイエスの願いを完璧に実現します。ミサ祭儀の際にキリスト者は、主の十字架のもとであらゆる時代の問題や困難や罪を神に差し出し、提示すると同時に、この世のために取り成し、必要とする恵みと助けを神に切に願います。

 神が「あなたの兄弟がどこにいるのか」(創世紀4,9)と尋ねる前に、キリスト者は心構えを忘れず、すぐに、世界のニーズを神にはっきりと提示する義務を持っています。確かに、一人一人のキリスト者がすべての人を兄弟姉妹として認め、彼らの番人であり責任者です。良い時も、悪い時も、キリスト者は主イエスに倣って、絶えず人の霊的であると同時に、物質的なニーズのために祈る人です。更に、必要なら時間を捧げ、相手の問題を自分のものにし、神に全てを委ねて生きる人でもあります。キリスト者は自分のためにも、人のためにも祈ることは利益があるとよく知っています。目立たないスペアタイヤのように、キリスト者は全人類に対する自分の責任を取って神の愛に生かされ、心、魂、知恵を尽くして全ての人を自分の親しい兄弟姉妹として受け留めるのです。
車の中に置かれているスペアタイヤは、ただ一輪だけです。同様に、この世の中で置かれているキリスト者の数も非常に少ないです。しかし、彼らは皆、世の救いのために必要不可欠な者です。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らせます」から。(1コリント5,8)


                        主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父

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