今 月 の こ と ば
2011年10月
希望するとはどう言う意味でしょうか?

  希望することは望むことではない。望みは、近い未来での実現を目指すので、時間や人の欲や計画に制限されている。むしろ希望は教会の信仰と神の愛の印を持っているので、永遠の幅がある。希望するとは、未来を越えて、永遠への道のドアを開ける事である。望みと希望は、人に生きる理由を与えると同時に、人の想像力や考えに不思議な翼を広げさせる。しかし、希望だけが、生涯を通して私たちが経験によって知った事や体験した事よりも、人生が私たちに与えようとする可能性が非常に多く、豊かである事を教える。希望は、幻や言葉の中にあるのではなく、むしろ人が具体的に信仰によって体験する状態の中にある。

  試練や失敗や絶望の時には、誰であろうと救いの出口を求める。終身刑の宣告を受けた囚人は、他の囚人や訪れる人との出会いのうちに、生き続ける希望を見出す。目の見えない人や、耳の聞こえない人や体の不自由な人も、必ず他の人との出会いの内に生きる力と生き方の工夫を見つける。希望はあっという間に天から落ちて来るものではない。希望は自分の心の奥底から生まれ、他人が示した信頼、友情、思いやりとの出会いによって成長し、段々強くなり、そして、神の関わりの中で、確かに、未来を明るくすると言えるだろう。希望は、既に何かを具体的に体験した人の証しに耳を傾ける事からも始まる。人は一人で希望を育てる事はとても難しい。希望する人は、自分の人生に新しい意味と光を与えるだけではなく、他の人々の人生にも力や勇気や輝きを与える。

  ところで人間は、大抵、思いがけない出来事のおかげで、あっという間に変わるので、聖書の多くの詩篇が、私達が神の内に希望を置くことを強く勧めている。神の愛といつくしみは永遠であり、ゆるぎないものである。使徒パウロも、たびたび「キリストが私たちの希望」である事を宣言する。カトリック教会の教えによると『希望』は3つの対神徳(愛、信仰、希望)の一つである。希望の目的は、永遠の幸せと神の神性に与かることである。そのために信者は、絶望のあるところに希望を置き、自分の力よりも、キリストの約束と聖霊の助けに寄り頼む。希望するキリスト者は、悪に対して強くなり、試練に対して忍耐と勇気を示し、未来を明るいものとして見、受け入れる。しかし、キリスト者の希望は、まず祈りの内に深い根を下ろす必要がある。そして、神に対するゆるぎない信頼を現す決意を持つ。それがないと残念なことだが、希望は望みに変わる。


                               主任司祭 
                                 グイノ ・ ジェラール神父

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