今 月 の こ と ば
2011年9月
分かち合うとはどういう意味か? 

  私たちは他者と分かち合うことで満足感を得られるかもしれない。しかし、私たちは「分かち合う」ことで幸せになるだろうか?

  私たちは他者と分かち合うことで満足感を得られるかもしれない。しかし、私たちは「分かち合う」ことで幸せになるだろうか?

  しかし、真の分かち合いはいつも憤慨する事で始まる。つまり分かち合いを望む人が、他者が人間に相応しくない状態にいるのを承諾できない事から始まる。即ち、自分たちが持っているものを他者は全く持っていないという不正に対する苛立ちを示すのは、その第一歩である。人に相応しい事は、体や衣服の清潔さ、仕事、家、食べ物、友、健康、生活費があること、社会の中での安定した生き方や明るい未来などである。

  私たちにとって、有り余るものや使っていないものを与えたり、お金を寄付したりするよりも、他者が私たちと同様に物事を所有する権利があるという事実を大切に考えた上で、努力や工夫を示すほうが正しいことではないだろうか?

  分かち合うことは自分の命を与えることと深くつながっている。このように神は私たちの惨めさを分かち合う為に、ご自分の命を捧げられた。マザー・テレサは「貧困をつくるのは神ではなく、私たち人間です。」と言っている。私たちは命をかけて分かち合う人間でなくてはならない。例えば、母が自分は食べなくとも子供にはパンを与えて分かち合う事に、無償の愛の姿が見受けられる。分かち合うことの喜びの中に、優越感があってはならない。「多くの人は一切れのパンではなく、小さな微笑みに飢えているのです。」と言ったマザー・テレサは「ないものさえも与えなさい」という犠牲の精神を望んだ。

  という分かち合いこそが、私たちをキリストの真の弟子にする。「ないものさえも与える」という分かち合いは、自分自身と共に他者をも幸せまで導く。これこそ、真理における愛ではないだろうか!

  勿論、カリタス・ジャパン、大阪シナピス、冬の会、NGOなど、いろいろなボランティア活動が必要である。しかし、困っている人の為に自分の命をかけて、自分の自由さえ失うという分かち合いこそが、私たちをキリストの真の弟子にする。「ないものさえも与える」という分かち合いは、自分自身と共に他者をも幸せまで導く。これこそ、真理における愛ではないだろうか!

                           主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父

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