今 月 の こ と ば
2011年8月
同情を寄せること、憐憫の情を抱くこととはどういう意味か ? 

  同情を寄せることは、とても威厳に満ちたキリスト教的な行いである。 他の人の苦しみや悩みに対して憐憫の情を抱くことは それは その人の苦しみと一致することで、また、自分たちが示す友情によって 彼が決して一人きりでないことを表す。 しかし、それを示す時、絶対に取ってはいけない態度がある。 それは、悲しい顔を見せる事や本人の前で涙を流す事や心配する姿を示すことである。このような態度は 苦しんでいる人に新しい苦痛を加えるだけである。 暗い顔で見舞いをする人は、病者の助けにはならない。 なぜなら、それは自分たちの苦しみや悩みを苦しむ人に更に与えるからである。

  また、自分の助けと思いやりがどうしても必要だと思い込む時に このような同情は知らず知らずの内に 高慢な心に変化する可能性が高い。 というのは、 自分が与えようとする慰めは かえって、苦しむ人を圧迫し、弱くなっている人は 自分に注がれる眼差しと 無神経に語りかけられる慰めと励ましの言葉を、自分より偉いと考える人から受けていると感じざるを得ないからである。 

 例えば、病院で働いている医師や看護師は、大人である病者や老人を、子供のように扱ってしまう危険がある。 気をつけないと私達が示そうとする同情と憐憫の情は 人を支配する野望や弱い人を圧迫する意志に変化する。 このようにある人にとって、同情を寄せることは、憐憫の情を抱く事を仕事としてしまい、他人の不幸を自分が自己満足のうちに、心地よく生きる為の手段としてしまう。

  真の同情と憐憫の情は 共感ではなく、むしろ苦しみや悩みと戦う力である。 このような同情は、自分たちの心にほんの少しのやましいところもないなどとは決して思わせない。 難しいのは人の苦しみと一致することではなく、苦しむ人の内にある希望と力を取りだし、湧き出させることである。 真の同情と憐憫の情は自己満足を与えず、喜びと癒しをもたらし、また 苦しむ人を優しく健康にし、回復させるところまで導く、強い目的を持つ。

  同情と憐憫の情は 母親と同じ心を与える。 母は 苦しむ自分の子に 決して不安や心配や涙などを示さない。 むしろ明るい顔や微笑みや喜びや未来への希望を色々な風に示す。 私たちも、母親と同じ心で 苦しむ人や悩む兄弟姉妹に向かおう。 そうして何よりもまず、キリスト者として あきらめることのない祈りによって、苦しむ人にキリストご自身の慰めと癒しの力を与えよう。

                         主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父

「今月のことば」目次へ
     HOMEへ