今 月 の こ と ば
2011年7月
赦すとはどう言う意味でしょうか? 
 
  「“兄弟が私に対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか?七回までですか?” イエスは言われた。 “七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。”」(マタイ18,21−22)。 赦しは神の無償の賜物として特別な力を持っている。 と言うのは、自分が人を赦せば赦すほど、自分も神に赦されているから。 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父も あなたがたの過ちをお赦しになる。」(マタイ6,14)

  ところが時々人がそれを望んでも、人の過ちを赦せない状態に置かれる。 例えば、自分が受けた傷が深すぎて癒しがたい場合、あるいは その傷を与えた人が 全く自責の念にさいなまれないというような場合に、私たちは 中々人の過ちを赦せず、厳しい態度を保ち続ける。 残念ながら、この態度が遅かれ早かれ、盲目的な高慢の態度に変化する危険がある。 それを防ぐために、私たちは ご自分に対して罪を犯した人々の赦しを神に願ったイエスを真似なければならない。 「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23,34) イエスは自分を苦しめる人を赦さないが、彼らを弁明する。 それは、神ご自身が彼らを赦すためである。 このキリストの願いこそ、彼がまことの人であった事をはっきりと示している。

  キリスト者が人の過ちを赦せないと体験する時には、神に向かって次のように言うべきだと思う。 「父よ、今、私はある人の過ちを赦すことができませんが、いつか、聖霊の助けでそれをすると思う。 しかし、父よ、待たずに、私の名によって、その人の過ちをお許しください。」 このような祈りが自分にも、他人にも、神の赦しを与え、自分が受けた苦しみを和らげ、そうして救いの平和と喜びにまで導く。

  私たちは 人を赦す心を持つために、何回も人の過ちを赦すと同時に 自分も教会の秘跡を通して神の赦しを受ける必要がある。 確かに、自分が神に赦されれば赦される程 人の過ちをすばやく赦すことが出来る。 従って、自分と全く同じ過ちと罪を行なう人のために祈り、執り成す恵みが必ず与えられている。 そうして、更に、赦しを願うのは、自分に対して罪を犯した人のためだけではなく、むしろ、人類に対する犯罪人や世界中に満ちている大罪人すべてのために執り成す必要があると悟る。 これが自然に良い習慣となるなら、神の心の広さを知ることになる。 
 
  「あなたがたは神に愛されている子供だから、神に倣う者となりなさい。」(エフェソ5,1) すべての罪人が 先ず神に、そして人々に、赦されるように取り成し、赦す心を持つ人は キリストと母マリアに似る者となり、義とされる。 なぜなら、キリストと母マリアが 神の前で、絶えず罪人の為に執り成しているから、彼らが死ぬ日まで引き続いて。

  事実、受けた、また与えた赦しによって 人は 神の救いの協力者となる。 これこそ全てのキリスト者が誇りを持って果たすべき使命ではないか?

                          主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父


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