今 月 の こ と ば
2011年6月
司祭は一体何者でしょうか ?
 
主イエスが受難に直面して、晩餐の食事の時 17回 『喜び』という言葉を使った。 それ故、司祭は いくら日ごとに困難、無理解、反発にであっても、彼は喜びに満たされた人であり、またその喜びで、キリストを信じて洗礼を受けた人々が段々大人の信仰を持つように助ける人である。 キリストとの親密さや福音宣教が与える喜びを持たない司祭は なかなか救いの良い知らせを伝える事が出来ない。 司祭は、輝やく喜びによって、命の泉であるキリストのすぐ傍に人々を引き寄せる幸せな人である。 司祭は神に生きる事を教え、証しすると同時に 信仰の喜びを与え養い、聖書の言葉の意味とその喜びを人々に発見させる。 更に、司祭は正しく生き、祈り、執り成し、「折が良くても悪くても励まし、とがめ、戒め、忍耐強く、十分に教える。」(2テモテ4,2)

  徴税人の頭、ザアカイをご覧になったイエスは 彼に道徳的な厳しい話や説教をせずに、ただ「今日、是非、あなたの家に泊まりたい」といっただけである。 この誘いは ザアカイの生き方を変え、彼を救った。 司祭も、キリストの憐れみの目で人々を見、彼らの内にある何に福音の力強い影響を与えるかを探す。 それを見つけたら 人々の中から回心の泉が湧き出るように司祭は一生懸命努める。 結局、司祭は 地下の水脈を発見する水脈占者のように 人の心に隠れている寛大さや優れたものを発見し、信徒の共同の幸せと利益のために取り出し、湧きださせる。

 司祭は キリストの名によって 人々を主の喜びのうちに繋ぎ、一致させる者である。 司祭は、勿論 人々の物質的な飢えと渇き、ニーズと不足に気を配る。 しかし、何よりもまず、人々の霊的な飢えと渇き、ニーズと不足を考えて、精一杯満たそうとする。 ミサ祭儀の時、命のパンを裂き、救いの杯を捧げる司祭は キリストとなって秘跡的に皆を誘う。 それは共同体が隣人愛を行い、互いの助けに励み、分ち合うためである。 司祭は自分に委ねられた人々や出会う人々を絶えず神に紹介し、彼等に豊かな祝福や神への知識やゆるぎない愛が与えられるように切に願う。 司祭は世の救い、人々の平和と幸せを神と共に強く望んで、自分に生きるのではなく、喜びのうちに神に生きようとする人である。

 司祭は神から選ばれた者だからこそ、信徒の共同体も神の恵みによって存在するという喜ばしい事実をたえず司祭は共同体に思い起こさせる。 彼に委ねられた共同体が愛の完成まで導かれるよう、司祭は日ごとに、神を探し求め、見つめ、神に感謝し、祈り、執り成す。 又、聖書の言葉の黙想によって、自分自身の信仰と神に生きる喜びを養い続ける。 このようにして、司祭は キリストの真の証人になる。 しかしながら、司祭がキリストのしもべの状態から親しい友の状態へ移されるためには、信徒の共同体の祈りと助けが土台となる。 その具体的な支えがなければ司祭の忠実さと喜びが大きな危険にさらされるということを全ての信徒が知るべきである。

                          主任司祭 グイノ ・ ジェラール神父

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